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天冠紫微上宮にいて善悪を監督

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年11月 7日(火)18時50分9秒
  天官は体の命の宮に守って、官の禄宮、主貴顕、喜と吉兆の星加会。
一番高いものは神の居わす場所、二番目は神に使える天官の住処筑紫城
天官及び冢宰に関しては、少々十二国記と異なりますが、本編には
「古くは天官長大宰が冢宰に就任し、六官府をとりまとめたが、
 近来別に冢宰を立てるのが慣例だという」
国政を総括した
聖人は、その天君である心を清らかにし、その天官である感覚器官を正しくし、 その天養である衣食衣服を整備し、その天政である自然の政令を順守し、 その天情である感情を育成して、その天巧である自然の働きを完全にする。
上元一品天官賜福大帝、中元二品地官赦罪大帝、下元三品水官解厄大帝の三官を指す。
天官は、上元一品九気天官紫微大帝と称し、元陽七宝紫微上宮にいて、諸天の帝王、高位の神仙、すべての星の神々を統括して、人間の功罪善悪を監督している。

官職を天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の六官に分け、計360の官職について述べている。
人間の美男子と龍王の3人の娘との間に生まれた「天官、地官、水官」という. 異母兄弟神である。 長男の天官は天官賜福大帝と呼ばれる福を授ける神

《周礼は正義である》
《天官》ちょっと開始する“叙官”は説明する、“治官之の類”は塚が即ち大きさを主宰して主宰して、有小宰、宰夫、それ下の食べ官の長則は食事夫とする。孫の詒は《正義》に古典籍を引くことを経過することを譲る、大きく主宰することを説明して、宰さん、宰夫は全部宰と単に呼ぶことができて、それで食事夫はまた宰夫を作と称することが可能に、大きさと呼んで宰さえ。その地位と職能はいくらでも段違いで、正式な名前はかえって通用可能です。これで分かる、于一の系の正式な名前に属して、一定の情勢下にいることは通用したものが出来ていることが。
《周礼》的の食事夫はまさに食べ官で、“掌王之の食べは食事が恥ずかしがることを飲んで、養王と後によって、世子”、克の器の食事夫職能と歴然として合わない。克所任食事夫、実際は書中の宰夫に該当する。宰夫の職の文雲
宰夫之の職:掌治朝之の法、正の王及三の公によって、6卿、医者、群の吏の位、掌其禁令。叙の群の吏の治、賓客の命令を扱うことによって、諸臣之は回復して、万民のものは迎える。
天子梁其の体を使って、国の君大正は天子で寵愛して、蔑の梁其孫氏《正義》は4の所論を巻けば、文献内の“大正”即卿、こちらの“国の君大正”は同様に同様であることです。銘文は食事夫が卿下に位置すると表明して、《周礼》下医者に該当する宰夫を話して、妥当です。
王は言う“山、命のあなたの訴訟は人を献上することを飲んで
用いて、憲司賈を作って、敢えて苦手にしてはいけない。
《周礼》食事夫の職の文有“王燕は飲酒して、すると主”、を献上することとする“人を献上することを飲むことをつかさどる”がちょうど食べ官食事夫の職責とすることが見える。

http://6302.teacup.com/kodaigiten/bbs

 

天冠を懐く天孫

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年11月 7日(火)18時32分37秒
  天君である心を清めて、天官である感覚を正し、
天養である衣食を整えて、天政である政令を守り、
天情である感情を育てて、天巧である摂理を究める。
こうして、聖人は、為すべき、為さざるべきを、悟る。
天地は、その役目を果たし、万物も利用される
そもそも、大自然は、自然に動いている。
不自然に働くほど、不自然に見えてしまう。
大自然の道を悟って、在りのままに、委ねる。

http://6302.teacup.com/kodaigiten/bbs

 

耶麻台は合体に在り 「人間環境整合論」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月31日(火)16時04分56秒
  合体とは整合なり。
一つのものと一つのものとが、交わる事により、正解となる。
日本は古来よりすべてが整合して、成り立っていた。
日本法との整合性
リンク不整合
人間環境整合論における環境とは人間を取り囲むもの全てである。
人間環境は整合論は実学の典型である。

整合性を欠くとすべて、不合性となる。
嘘か真か?それは整合性に基づくものが正解となる。
整合性欠く日銀http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2005/02/post_5.html
エラーによりデータの不整合を起こすことなく。
漢字といえば、ひらがなに整合している日本語。
似たような字が重複して入っている
「重複符号化された漢字」中国の漢字符号とUCSの対応する。
Unicodeの漢字の不整合: 文字符号化
国際基準との整合性は西洋との違いがあり宗教と共に不整合を生じる。
日本が西洋国際基準と整合すれば、それは日本が現代に於いて過ちになる。
それが憲法法律で整合している現在に於いては、日本の文化が損なわれている。

これは明治革命と天皇が整合するとすれば、明治革命は西洋に日本を差し出して
替わりに憲法で、西洋に組して西洋英国日本を無理に統合させた事になる。
これが大室明治海賊天皇(むくろ)とされる理由。
間違いだと思いますが、全体の整合性があっていないのではないかと思います。
データベースの信頼性は確実整合性の確保に役立ちます。

不整合 -ものしり教室
http://www.oyo.co.jp/monosiri/h-huseigou.html
非対称の整合性. 日常の断片と妄想の欠片

命というのは間違いなく全てのひとにとって価値のあるものである
別のものとを直結することによって、別の何かの価値を作り上げる。
 

耶麻臺と耶麻台

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月30日(月)19時59分51秒
  邪馬台国物語をただいま公開中です。
炭焼き長者伝説も耶麻台の伝説です。
卑弥呼の正体は是までの、実在ではありません、稲作農耕を開いた神話として、
中国にも伝わっています。
日本人は出遅れたのは、あまりにも西洋の思想にこだわり、日本の文化さえ失い
ましたので、後には何も残っていないのです。
日本には数々の神話はあるが、これが何を意味するのかさえ、わからなくなって
いたのは、鎌倉の後鳥羽院が追放されてから、児島家にしか、伝わっていません
でした。

現皇室は関係の無い人材がなっていましたので、教育にも学者にも日本の真実の
歴史はわかっていませんでした。
わかっていれば、昔に解決していたでしょう。
わが祖は数々の神話や相撲や甚句などで伝えていましたが、解る人はいません
でした。
ここにその実態を披露しました。
今一度日本とは何か考え直していただければ、幸いでございます。
『耶麻臺と耶麻台』
http://0bbs.jp/no5/

http://www.progoo.com/rental/simple_bbs/bbs.php?pid=24509

 

生きていく力が奪われている

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月25日(水)23時22分28秒
  一人の力は小さく、生きていく中で壁にぶち当たったり、行き詰まりを感じたりしますが、人との出会い、共感する経験を持っていれば、そこを乗り越え、道を開く力にもなる。
それらをすべて一瞬にして奪われ、彼らが存在したことすらだれも知りません。

生きている間、独占して、死後、観光資源として世界から観光客を集めているのであるから、権力者や独裁者の巨富の集積も国民の為ではない。
先祖が一番喜ぶのは残された家族が幸福な人生を生きてくれることです。

一瞬の欲望で一生を虚像にとらわれて生きていく人もいる。それでも生きていくには力がいる。人間は、一人で生きていくことはできません。 他者との関係に於いて、自分の存在価値を確認し、自尊心が満たされてはじめて生きていく力が湧いてくるのです。

自分の意思の通りに動くことが出来なくなったら生きていくって 物凄く大変なことなんだ。
生きていくことが、どうにもならない ... という無念と諦めに襲われるものの、もはや自分で事を切る力は失われてしまっていたのです。

頼ることではなく 独りで大地に立てる時 周りの世界が出来上がっていく 独りでも生きていく力がなければ 自分の世界は出来上がらない でも 周りに人がいなければ 独りで生きて行く事なんかできない まるで 卵と鶏の話

人は住む場所を作るために森を切り開く。火を使うために木を切り倒す。外敵に襲われればそれから身を守るために戦い、そして栄養をとるために肉や野菜を食べる。人の営みは、ほとんどが他の命の犠牲の上になり立っている。むろん、植物にも命があるのだから当然。

他の命を奪うという行為がいいことであるわけがない。自分たちが生きていくためとはいえ、それを正当化できるわけではない

それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。生きていこうとするためには、他の命を奪うという行為をしていかなければいけない。もちろん、他の命を奪う以外にも多くの罪を犯していかなければならない。

私たちは自分の人生が、数え切れないほどの他の犠牲の上に成り立っているという事実
使徒を倒した。人類を守るというために、彼らの命を奪った。
自分の意志を持たず、あの人の人形として、ただ命じられるままになっていた。

人間は自然から生かされてきたのです、それを替えてしまい、明治から人口社会の枠組みに取り入れられ、憲法という
自分の意志を持たず、あの人の人形として、ただ命じられるままになっていた。
 

人口科学が作り出した制度

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月25日(水)23時03分36秒
  人口科学が作り出した制度になってしまった土地は、自然から離脱した生き物達が
ごろころした、暮らしをしています。
われわれ祖先は、近代のような人口の野蛮的な暮らし方では、すでに途絶えていたことでしょう。

日本という国は王により開かれて、神々の力で自然の中に平等な生活がされるように、なりました。
現代とは随分異なりが出来てしまいましたが、
人は生きていく事を王の力でもって、教えられ狩猟生活の父系社会から開放されて、土着して共同家族生活がはじまりました。
これが元に戻っているのに、現代人は気付いておりません。
現代は広く全般に安心して暮らせる事が行き届いていますか?
多分そうではないでしょう、何しろ人口科学で生きているだけなので、神々の力を借りているだけの、なくなるまでの運命が待ち受けています。
これが人口科学自由民主制度で、ものがなくなりかけている事すら気付いていないのですから、政府は対策を打ち出してはいるが、逆に人間を占領欲に走らせ、互いに争いながら、卑弥呼の時代が再来するのももうすぐ、でしょう。
いままで作り上げてきたものまで、破壊し続けている現代は、後世に何も残すものがなくなるでしょう。
人間も破壊してしまいますから、アフリカの自然で生活していくのと、同じににり、弱肉強食で、争いながら生存していくしか、なくなるのは目に見えています。
進んできましたので、この安陪政権では、後何年かで破滅するでしょう。
それは
人口的な発想で独占して行って、改革改革といい続けてきましたが、これは改革とは逆行しています、良くなるところか、破壊し続けているのですから、いままで積み上げてきたものが、失われているのです。
身の回りを良く見てください、自然観がすっかり消えてなくなり、砂漠現象化しているでしょう。
人間は生き物ですから、一番大切なのは生きるという事が先決だが、現在は違いますね。
政治つまりは、人間が決めたもので自然ではありません、従って人口的な発想だけで、人間が生きていくことは出来なくなりますね。
人間も動植物も自然がなくなると、生存はできませんね。
だが現代ではそれが気が付いていないのです、政治家は変わりに今生きていくには人口しか出来ないとしています。つまりは金集めだけで、人間の生存とは何等関係しません。
これは人間が欲を出して占領欲に走るだけの事で、いくら国民がお金税金を支払っても、国民の生存とは何等関係がないのですから。
自分の目先の事が大切ではないだろうか、そして一人では何も生存できないので、周りにも目を配りながら、共同で力を合わせていくしか、ぬけきれないのですから。
このようなときに政治家のいう事についていては、あなたのほうが先に獲物になるでしょう、彼等には、国民の事等何も考えてはいないのですから、人口科学ばかり押し進めています。人口科学は人間が対象ではありませんから、ロボットみたいに、動いているだけ。

現代は人口科学がといいましても、足がかりは、神々の知恵なくしては、何も出来ていないのです。
人口科学は人が成すことで、自然とは違いがあります。

人口科学はさしずめ、陰の世界のことにつながり、自然は陽の世界を表わします。
現代は人口科学夜型人間の夜行性でしょう。
この世がよるばかりですと、目が見えないので何もできません。
 

二つの顔を持つ悪い化身達が、民が罠にかかるのを

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月24日(火)07時26分3秒
  TVでの期間限定で放送見るテレビが、使えなくなるのは政治家とあきないにんが、話し合い、我が物顔でしていて、国民に余計な家計負担を負わせている悩みに苦しむ。
二つの顔を持つ悪い化身達は、新しいを連発しながら、裏では国民から金集めているだけ。
自由の裏には二つの顔を持つ悪い化身達が、
民が罠にかかるのを待っている。
隣きんじょに、悪巧みたちが集まり、仲良くといい顔をした民生会員等の世話人の本当の姿は、心の醜いのに、良人ぶって、いるが、
裏の顔は汚い遊行に、使う金集めしているだけで、参加しないと、仲間はずれにして、ありもしない、うわさを、
集まり連中が(すいちょう)し、人の家庭をめちゃめちゃにして、楽しんでいる。

日本の姿がこればかりで、民はいつも悩ませられて、我慢してじっと、仲間はずれにならないように、悪の仲間に入りこんでいる。こんな時愛国心や教育改革など何の役にも立たない。だが政治家は、後の事は見捨ててしまい、よくなったとマスコミにすいちょうする。
ここにマスコミも仲間入りしている証拠がある。
ここには善悪の何もない、あるのは自己満足の、見捨てられるのは、そけて、通す。
国民の全体が之である。
特に上に立つ者ほど、仲間はずれにならないように、悪の仲間に入りこんでいる。
郵政民営化反対議員や自民党公明党は、善悪よりも、国民の為よりも、自己が食い口がなくなら、ないように、議員に食いかじりついている。
特にマスコミで有名なやくざ上がりや、芸能人やスポーツ議員は、自分が何であるかよりも、金と力に食いついていて浅ましい限りの、与党自民党。
その仲間にしがりついて、名前だけの、民を食い遊ぶ為だけに,しがみついて、離れない。
どう解消すりゃいいのか。 きっと数
年後にはまったく違う欲求に悩まされていると思う。
こんなに昔から、取りざたされていた
のに、日本の医療は本当に遅れているよね。

環境が変化し
てストレスがたまる · 環境が変化してストレスがたまる。

こんな中・・・
天皇のふりをして、民の為には何もしていない者や神社は神頼みに、頼る者から金を集め、自適快適に暮らしていて、神々の元へは一度も挨拶に来ていない。
天皇のふりをして災いをもたらしている化身は、一度も神々の元へは挨拶に来ていない。
神社の神主たちは、一度も神々の元へは挨拶に来ていない。
集まっているのは、神々とは関係ない、天皇のふりをして災いをもたらしている化身の、乗っ取った伊勢熊野神社や自分達で造った明治神社、靖国神社は、神々の神社ではない。

伊勢熊野神社や自分達で造った明治神社、靖国神社は何故遠のいたか?
その原因は明治革命という悪の化身にまみれた、集まりで、天皇でもない、大室民が、欲に絡んだ、下級貴族を巻き込み、上にかかげたように、すいちょうして、仲間をふやして、日本の為に働いてきた、神社仏閣を壊して、新しい自分達の、お札に顔を印刷して、いたのは、これらすいちょうの、革命の仲間である。
 

化身に民は悩まされている

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月24日(火)06時36分20秒
  この日本に災いをもたらしている化身に民は悩ませられている。
心にゆとりがない時代だ。
いくら頑張ってもむくわれない。
老後はゆっくり暮らせられると思っていたのに、不安ばかり。
子供は学校へいっても、就職口がない、何をしたらいいのか、今の時代は。
昔は商売しているだけで暮らせていたのに、後継ぎの子供が居ない。
都会町村では、昔は誰とも親しかったが、今は誰も相手が居なくてさびしい。
大学卒業しても、就職しても、いつも不安を感じ、明日が何時どうなるか厳しい。
生まれてきたものの、親が家に居なくて、家族がいないので、どうにもならない。
 

西羌之本、出自三苗、姜姓之別也

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月22日(日)16時03分29秒
  西羌伝は羌族の移動の歴史を考える上でも重要な史料であり、南蛮西南夷列伝
後漢書西羌伝によると1)、西羌の元々の出自は三苗という古代の未開民族
河關(涼州隴西郡)3)の西南に羌の地があり、賜支(地名)の岸辺から河首と呼ばれるところにいたるまで、綿の地が千里ある。
「西羌之本、出自三苗、姜姓之別也。其國近南岳。及舜流四凶、徙之三危、河關之西南羌地是也。濱於賜支、至乎河首、綿地千里。賜支者、禹貢所謂析支者也。南接蜀・漢徼外蠻夷、西北接善・車師諸國。所居無常、依隨水草。地少五穀、以産牧為業。其俗氏族無定、或以父名母姓為種號。」(「後漢書卷八十七   西羌傳第七十七」より)。

羌族・姜姓の祖・炎帝も南方・火を司る神とされている。
炎帝の名・烈山氏はその発祥の地が湖北省・烈山にちなむもの
 

禹は蜀郡広柔県の石紐邑刳児坪

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月22日(日)15時54分4秒
  禹の伝承と遺跡の調査. 治城羌族郷は禹の故郷とされ、古くから"神禹故里"と称された。
成都北部の山間に棲む羌族のあいだに伝わっている。 それによれば、禹は蜀郡広柔県の石紐邑刳児坪に生まれたという。 また漢代にこの一帯にいた冉ボウという民族(羌族を主体として構成されている)成都の北のビン川県は、茂県と並んで羌族が集中的に分布している地域である。http://www.littera.waseda.ac.jp/tyoukou/binkawa/binkawa.htm

[七]帝王世記に曰く禹が石紐から生まれた.県には石紐邑が有る.華陽国志に曰く:「夷人が其地を営む,方百里,敢えて居牧しない.過有れば,其の野の中に逃がして敢えて追わない,云うに禹神を畏れるとのことである;能く藏すること三年

西羌伝では唐谷が有る.秦州には牢北山が有り,その傍に三窟が有る.
 

神山の形で歴史に名を残すところは?

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月20日(金)10時07分24秒
  中国五大名山の第一にランク付けされている聖地泰山には会稽の神が祀られている。そもそも、泰山では東嶽大帝が最も重要な神位として祀られてきた。
泰山府君(たいざんふくん)は、我が国でも、深い信仰を集めている。

陰陽道でも泰山府君(たいざんふくん)は
お馴染みの神である。泰山府君祭(たいざんふくんさい)という陰陽道を代表する 。
天壇,
神霊 【 しんれい 】 が宿る 神体山 【 しんたいさん 】
山自体を神とする
山には 拝殿 【 はいでん 】 がなく、山自体を神とする

知恵のある陸上の小動物が愚【おろ】かな水棲動物【すいせいどうぶつ】を騙【だま】して川を渡ることに成功するというのは、東南アジアやインドなどに見られる動物の川渡り(知恵比べ)の典型例
竹林にいた兎【うさぎ】が洪水によって隠岐島【おきのしま】に流されたと語られている。『因幡記【いなばき】』という書物

今日まで維持されてきた歴史を有する村。洛陽安邑
統一した国家名称,日本名,首都 夏,か(夏),安邑

天子は安邑で上帝を祭り、天下に大赦して改元を行ったが、時に建安元年(一九六)春の事である。 是の歳、長安亂れ、天子、東遷し、曹陽に敗れ、河を渡り安邑に幸す。武帝紀

安邑 (あんゆう)
安邑. 傳說夏禹之都。 《水經.涑水注》曰:「安邑,禹都也」 ... 遠古時代. 安邑. 傳說夏禹之都。 《水經.涑水注》曰:「安邑,禹都也」。 《史記.吳太伯世家.索引》:「夏都安邑」。 《括地志》云:「安邑故城在絳州夏縣東北十五里,本夏之都」
安はあんであるが、夏王朝の都名が安邑(あんむらと書いてにほんでは言霊(はつおん) により安が夜須(やす)と呼ばれたのも王朝のやきものの技法が日本で焼かれた朝倉郡 夜須町三並鳥巣窯のやきものであったのもまだ誰にも知られていない。

安邑は秦に近き故、徒りて大梁に治す。
司馬懿に従って公孫淵を破り、遼東を平定すると、功により安邑侯に封ぜられた。

秦の始皇帝25年、呉・越の地を以って【会稽郡】と成す。のち浙江(せっこう)より南を言う・・・・人と人とが出会い、力と智恵を合わせる所

人名:禹. 國都:安邑. 西元前定都安邑國號夏。 人名:啟. 國都:安邑. 西元前2197確認世襲制度。 人名:太康. 國都:安邑. 西元前2188即位。 ... 西元前2079少康中興. 人名:夏桀. 國都:安邑. 西元前1818夏桀無到被放逐南巢,夏亡。

夏王朝 (B.C.2100頃~B.C.1600年頃) 資料により、458年、471年、(竹書紀年には472年)と違うため年代ははっきりしないが、まだ遺跡が発見されていないので、夏王朝を伝説王朝と定義することにする。 都は安邑(山西省夏県西北禹王城)といわれる。

都は安邑(あんゆう、山西省)など。 紀元前二十一~十六世紀頃、十四代、十七王という。 第十七代桀(けつ)に至り、殷の湯王に滅ぼされた。 最近、考古学研究の進展により、夏王朝の存在が主張される。
 

夜須の語源

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月19日(木)17時26分48秒
  夜須礼祭
桜花と信仰
いずれも人の道を説いた(安やす)からきており、王朝の安邑もにも語源から
見えてくるものは、豊かな邑を暗示しているようである。
又太一の様相も見えている。美しいとか綺麗なに暗示される。
我々日本の神社の手洗いの洗心にも通じることば夜須。

君がため醸(か)みし待酒 夜須の野に独りや飲まむ。 友無しにして  大友家持
やすらい祭は、「安良居祭」「夜須礼祭」とも書く
久寿元年(1154年)の四月に老若男女が夜須礼(やすらい)と称して、風流傘などの作り物をなし、笛や太鼓を奏でながら紫野社へ詣でたことが始まりとされています。

夜須の野とはうつくしい野と捉え地名に准えている。
遠の朝廷にも表われている地名夜須。

波迩夜須毘古神(農耕に適した土の神)
北九州夜須の地名と、畿内大和の地名は、共通点が多い。 「やまと」

波迩夜須毘古神と波迩夜須毘売神
大伴家持も、夜須で詠んでいる。


万葉集・4127番

夜須能河波 伊牟可比太知弓
 等之乃古非 氣奈我伎古良河 都麻度比能欲曽

安の川い向ひ立ちて年の恋け長き子らが妻問の夜そ

天のあまのがわ(安の川)に因む。

波迩夜須毘古(ハニヤスビコ)、波迩夜須毘売も楚人の神で、こちらは土師器と土師氏に結びつきます。

夜須の語源は古代中国起源前21世紀~16世紀、夏と云う最古の王朝の兎が舜の譲りを受け国都名が安邑としました

波迩夜須毘古神 国之闇戸神. 波迩夜須毘売神  古事記に見られる神の系譜

ここでは語源の由来は神の根源である、古代のメソポタミアに求め委ねなければならない。   神々と農耕の関わりから始まる事は明らかで、モノに宿るとした重なりから、言葉が出来、その音訓が安(夜須)の語源になったものであろう。
土や地名のやすは、(天の川)河に准えた農耕から始まっており、音訓が安(夜須)の語源になったものであろう。
ここでの言葉の夜須の由来は、稲作には水が伴い、土も土器を造る時水は混ぜるものとして、大切なもので、ある事から、ここでの
「やす」とは安心のあんに、音訓しているので、
大切なものとして受け止めていいだろう。
 

秦始皇帝陵墓付近出土人骨はペルシア人らしい?!

 投稿者:ドラドラ  投稿日:2006年10月17日(火)00時11分16秒
  こんにちは。
http://blog.livedoor.jp/osouji60/?blog_id=1526704に書いておきました。興味のある方、ご覧ください。失礼しました。
 

goo.ne.jp

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月16日(月)14時28分51秒
  お問い合わせ
https://goo.e-srvc.com/cgi-bin/goo.cfg/php/enduser/ask.php
【goo.ne.jp】からのメール
お問い合わせを受け付けました。

お客様の【お問合せ受付番号】は「061016-000333」です。
後ほど、問合せ受付メールをお送りいたします。

いただいたお問い合わせにつきましては、調査の上、goo事務局より返信致しますが、問合せの内容によっては
しばらくお待ち頂く場合がございますのであらかじめご了承お願いいたします。

こちらの問い合わせに関し、再度お問合せいただく場合は、【お問合せ受付番号】をご記入いただきますようお願い致します。
 

天子の祖先

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月16日(月)14時13分37秒
  北極星(ほっきょくせい)は、天の北極に最も近い輝星
北極星を天皇大帝または太一(タイチー、太極・太乙)と呼び、これが日本に伝わると、大和王権の長であるスメラミコトを天皇と呼ぶようになった。著作権の侵害している注。
地上の天子もそれに倣って南面して座るべきものだとした。

日本では現在未発表。
現在の天皇祖とされているのは誤り。ここに注、出典のないのに、解読は出来ない。
ここも侵害部分注・妙見菩薩は「天帝」が仏教に取り入れられた存在である。
児島宮刊行会が出典元。
インド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から来たもので、北極星を神格化したものであることから、通常は大黒天や毘沙門天・弁財天と同じ天部に分類されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%8B%E8%8F%A9%E8%96%A9
古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝と見なされた。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%CC%AF%B8%AB%CA%EE%BB%A7/detail.html?from=websearch
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2006/09/24 07:17)
エヌ・ティ・ティレゾナント株式会社(以下「当社」といいます。)は、当社がウィキメディア財団から当該財団の運営する日本語版ウィキペディアを構成するフリー百科事典の情報(以下「ウィキペディア」といいます。)
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太一ピン南越宇宙の根元

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月16日(月)13時54分0秒
  太一(たいいつ、ピンイン:tàiyī)とは古代中国における宇宙の根元を表す
天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格。大一・泰一・太乙とも書く。
『竹書紀年』(ちくしょきねん)は、中国の編年体の歴史書。
九州(古都)の中心である中原の地洛陽河南省西部にあり。
黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。神話上の神々三皇五帝。
天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星
天白とは、太一(北極星)、太白(金星)の総称
 

太一著作権侵害者

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月16日(月)11時20分17秒
  邪馬台・夜須台・太一著作権侵害者

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%A4%AA%E4%B8%80
天安河原事対極園也

邪馬台・夜須台・太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定される
児島宮知らずして太一無し。
日本政府すら、何の処置もしていないし、日本の歴史改竄や天皇改竄では、太一無し。
名前:  総務司
住所:  福岡県朝倉郡筑前町
 

著作権侵害者

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月16日(月)11時12分8秒
  著作権侵害は邪馬台国の謎さえも、解説せず、単にネット拾い読みして、発表したのは、許されざる行為也。
陰陽、万物という宇宙生成論


天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星邪馬台
北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神
「天地自然之図」または「天地自然河図」太極(たいち)
天の安河原とは之也。
葦原中国平定の記述は宇宙生成論道のこと。
台とは太一也。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%A4%AA%E4%B8%80
侵害壱出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%B8%80
北極星
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E6%98%9F
天照大神が太一と連系したなど、何人も日本には居ない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9

談話「長州藩の攘夷方針は作為されたものであり、ポーズにしかすぎない。
1865年、幕府に従わない長州藩は「天地不可容の大罪」という立場から、
「長州藩は実際は外国と講和を結んでいるにもかかわらず、それが民衆に知ら
れていないために、民心を得ることに成功している」という
宮家の語源は
穀物の蔵のことである、保存の種を安置する場所に由来している。
如何なる者も之を書き加えるべからず。

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夜須台が邪馬台太一は天の中心

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月16日(月)10時29分0秒
  邪馬台・夜須台・太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定されることもあった。
天照大神を太一とする。
天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格。大一・泰一
『呂氏春秋』大楽篇では道のこと
名づけるなら「太一」
陰陽、万物という宇宙生成論
『淮南子』天文訓「紫宮は太一の居」としたり、『史記』天官書において「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」
天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星
著作権あり
北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神
九宮の法九州
太極図(たいきょくず)とは、太極から始まる宇宙生成を描いた図をいう。
はこの図が聖人(伏羲・文王)が『易』を作った
「伏羲八卦太極図」
「天地自然之図」または「天地自然河図」太極(たいち)
天の安河原とは之也。
(九宮貴神)、太一神が九宮を巡行としてそれにもとづき禍福を占ったり、九宮貴神壇を設けて祭祀を行ったりした。之邪馬台也。
太一・摂提・軒轅・招揺・天符・青竜・咸池・太陰・天一の9神が支配する9つの宮殿。

皇室の祖神(皇祖神)とされる。『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神と表記
別名大日孁貴神 (おおひるめのむちのかみ)。

葦原中国天つ神は、ナキメに、アメノワカヒコに葦原中ッ国に遣わした
荒ぶる神どもを平定せよ
高天原太極園
葦原中国平定の記述は宇宙生成論道のこと。
天孫降臨(てんそんこうりん)は、アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話
葦原中国平定の後、ニニギが葦原中国に降臨し、コノハナノサクヤビメとの間に三柱の子を生むまでの日本神話之宇宙創生也。
 

宮家(みやけ)とは

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年10月11日(水)10時12分24秒
  宮家とは、閑院宮(かんいんのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、伏見宮(
ふしみのみや)、山階宮(やましなのみや)、賀陽宮(かやのみや)、久邇宮(くにの
みや)、梨本宮(なしもとのみや)、朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮、北白川宮とは
真っ赤な偽りである。明治に始まる宮家は皇統とは関係なしに、革命派が名乗っている
だけで、真実の宮家とはならない。

宮家の語源は
穀物の蔵のことである、保存の種を安置する場所に由来している。
『広辞苑』によれば宮家とは「?親王・法親王・諸王及び門跡などの御家。
京都御所・仙洞御所は宮廷(天子・国王のいる場所。禁中。禁裏。)現在は空
宮家とは、いざというときに皇位を継承するために考案された制度なのである。

日本の天皇家で皇統断絶の危機に備えて創設された代々皇族の身分の保持を許された
種を表わし、天皇とは異なる。
天皇は皇統に類しておらず、女系から代理になりそのまま、譲らなくなったのが
時代を経ても見られる。藤原氏祖鎌足は、天皇の外戚とされているだけで、皇統
は天智の子と目される、藤原不比人家だけが、本当の外戚にあたる。
三宅麻呂は間違いなく
和銅と非常に深いかかわりがあり、政治の中枢にあった藤原不比人が経済政策の中心に
据えた銅銭鋳造の仕事を推進する優秀な官僚でもあったという。
日本書紀編纂の総責任者である藤原不比人。

三宅氏がその任となったのは今から約、年前のこと、
三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。
高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建
し、正平20年(1365)に没した」とある。
三宅氏は、中臣鎌足の流れを
くむ関白 藤原道兼(北家)より五代目の宇都宮三郎朝綱 ... 以後、三宅氏はめま
ぐるしく
揺れ動く摂津にあって、権謀に身を処すことを保身の術として動乱の時代を生きた。


徳川家譜代大名で挙母藩主となった三宅康貞の家系で、祖は鎌倉時代末期に現れた
古代の三宅連の末裔の児島高徳であるとする。三河国内で三宅氏の活動がわかるの
は15世紀末になってである。三宅筑前守家次なる人物が猿投神社の棟札に名を残す
明応二年(1493)六月に完成した猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。
(536)5月の条によれば、那津の口に官家を修造し、内外の非常に備えて穀物を蓄え
させたとあり、これが三宅の地名の起こりと考えられる。
古代、天皇直属の所領は一般に「みやけ」(三宅・屯倉)と言った。
最初遠山景玄(かげはる)と名乗り、次に母方を継いで三宅弥平次と改め、さらに
光秀の娘婿となって名乗った明智秀満である。 ... 三宅氏の起こりは、南北朝
時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。

海幸彦と山幸彦
无間勝間(まなしかつま=目が堅く詰まった竹籠)の小船を造り、その船に載せて
 教へてのたまへしく 「我その船を押し流さば ややしばし往でませ 味
(うま)し御路(みち)あらむ すなわち その道に乗りて往でまさば 魚鱗の
如造れる宮家(みや) それ綿津見神(わたつみかみ)の宮ぞ 上つ巻(神代の
時代)古事記から「船」に関する記述

談話「長州藩の攘夷方針は作為されたものであり、ポーズにしかすぎない。
1865年、幕府に従わない長州藩は「天地不可容の大罪」という立場から、
「長州藩は実際は外国と講和を結んでいるにもかかわらず、それが民衆に知ら
れていないために、民心を得ることに成功している」という
国際的には、欧米列強が日本の植民地化を狙うという動きに先鋭にあらわれた。
天皇を中心とする反動的で寄生的な公卿一派と結んですすんでいったことから、
これらの指導者が明治政府の新官僚となって諸隊の兵士への弾圧をおこない、
人民を裏切って、軍国主義の道を突きすすむことにつながっていく。山口県民
の明治維新の歴史そのものの改ざんとなっていることである。
 

禅譲によって天皇即位名

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月30日(土)16時51分1秒
  禅譲によって天皇即位10代崇神すじん天皇から崇神天皇68(前30)
垂仁すいにん
景行けいこう
成務せいむ
仲哀ちゅうあい仲哀天皇9

称光しょうこう
後花園 ごはなぞの
後土御門 ごつちみかど
後柏原 ごかしわばら
後奈良 ごなら
正親町 おおぎまち
後陽成 ごようぜい
以降神譲回復しているのが

後水尾 ごみずのお
明正 めいしょう
後光明 ごこうみょう
後西 ごさい
霊元 れいげん
東山 ひがしやま
中御門 なかみかど
桜町 さくらまち
桃園 ももぞの
後桜町 ごさくらまち
後桃園 ごももぞの
光格 こうかく
仁孝 にんこう


禅譲によって天皇
孝明 こうめい
明治 めいじ
大正 たいしょう
昭和 しょうわ
今上 きんじょう


神譲の天皇即位神武 じんむ
綏靖 すいぜい
安寧 あんねい
懿徳 いとく
孝安 こうあん
孝霊 こうれい
孝元 こうげん
開化 かいか

神譲の天皇即位応神天皇310年
16禅譲 天皇即位仁徳 にんとく
17 履中 りちゅう
18 反正 はんぜい
19 允恭 いんぎょう
20 安康 あんこう
21 雄略 ゆうりゃく 雄略天皇23(479)
22 清寧 せいねい
23 顕宗 けんぞう
24 仁賢 にんけん
25 武烈 ぶれつ
26 継体 けいたい
27 安閑 あんかん
28 宣化 せんか

29神譲 欽明 きんめい
30 敏達 びだつ
31 用明 ようめい
32 崇峻 すしゅん

33 禅譲によって天皇即位推古 すいこ

34 神譲の天皇即位舒明 じょめい
35 皇極 こうぎょく
36 孝徳 こうとく
37 斉明(皇極重祚) さいめい
38 天智 てんじ
39 弘文 こうぶん

40 禅譲によって天皇即位天武 てんむ

41 神譲の天皇即位持統 じとう

42 禅譲によって天皇即位文武 もんむ
43 元明 げんめい
44 元正 げんしょう
45 聖武 しょうむ
46 孝謙 こうけん
47 淳仁 じゅんにん
48 称徳(孝謙重祚) しょうとく

49神譲の天皇即位光仁 こうにん
50 桓武 かんむ
51 平城 へいぜい
52 嵯峨 さが
53 淳和 じゅんな
54 仁明 にんみょう
55 文徳 もんとく
56 清和 せいわ
57 陽成 ようぜい
58 光孝 こうこう
59宇多 うだ
60 醍醐 だいご
61 朱雀 すざく
62 村上 むらかみ
63 冷泉 れいぜい
64 円融 えんゆう
65 花山 かざん
66 一条 いちじょう
67 三条 さんじょう
68 後一条 ごいちじょう
69 後朱雀 ごすざく
70 後冷泉 ごれいぜい
71 後三条 ごさんじょう
72 白河 しらかわ
73 堀河 ほりかわ
74 鳥羽 とば
75 崇徳 すとく
76 近衛 このえ
77 後白河 ごしらかわ
778 二条 にじょう
79 六条 ろくじょう
80 高倉 たかくら

81禅譲の天皇即位 安徳 あんとく

82神譲の天皇即位 後鳥羽 ごとば

83禅譲の天皇即位 土御門 つちみかど
84 禅譲の天皇即位順徳 じゅんとく
85 仲恭 ちゅうきょう
86 後堀河 ごほりかわ
87 四条 しじょう

88神譲の天皇即位 後嵯峨 ごさが
89 後深草 ごふかくさ
90 亀山 かめやま
91 後宇多 ごうだ
92 伏見 ふしみ
93 後伏見 ごふしみ
94 後二条 ごにじょう
95 花園 はなぞの
96 後醍醐 ごだいご
97 後村上 ごむらかみ
98 長慶 ちょうけい
99 後亀山 ごかめやま

以降禅譲の天皇即位
 

神譲と禅譲の天皇即位

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月30日(土)15時57分35秒
  皇位継承はこうして行われる。                           一般的には、天子(ほとんどの場合、皇帝)は神譲といふ。中国の伝説上の聖天子

禅譲とはその地位を血縁の者でない徳のある人物に譲ることである。歴史上「禅譲」と称されても、譲られる側が強制して行われることが多い。このような場合を簒奪(さんだつ)という。禅譲、無理やり地位を奪うことを簒奪ということがある。

(禅譲によって成立した天皇) 革命(「天命を革(あらた)める」)が起きるとされた。武力によって追放されることを放伐といった。天孫の継承は神譲により引き継がれている児島宮はそれである。

易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。大室虎吉海賊明治天皇のような成り上がり者の支配を正当化することが出来たとも言える。(禅譲によって成立した天皇)例

禅譲によりの天皇名
10代崇神天皇から14代仲哀天皇
天武天皇
聖武天皇
称徳天皇

後小松天皇(北朝)後深草系を持明院統
足利3代将軍足利義満によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し禅譲した。
足利氏に擁立された光厳(こうごん)・光明(こうみょう)・崇光(すこう)・後光厳(ごこうごん)・後円融(ごえんゆう)・後小松(ごこまつ)

正統天皇吉野に南朝(吉野朝廷)後醍醐天皇 系統は大覚寺統

徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝を正統であると提示した。
また同様に南朝正統論を支持した頼山陽は後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から(禅譲は神譲の反対で、奪い取る事)受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した(但し史実では神器帰還の儀式が行われたのみで禅譲の儀式は行われていない)。 この時の記載には赤橋女が紀家広に嫁していた関係から、高徳女祖範長の養子先が紀家広であった為に、話は流された。
南朝正統論を支持した頼山陽は歴史捏造第一人者である事がここに解る。そこに明治改革の陰謀がある。

●北朝方公家の陰謀は確実

持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称する

皇統争いの基はここにあり、禅譲(代理人)が基頼の孫持明院基家の娘陳子(のぶこ)は禅譲(代理人)守貞親王の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の御沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王禅譲(代理人)(後堀河天皇)が天皇となった。守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した。後堀河天皇は譲位後、持明院邸内を仙洞御所とせられてから、その後代々その例となり、禅譲(代理人)後嵯峨、禅譲(代理人)後深草両上皇もこれに住まれたので、この後の方々を持明院統と称することとなった。持明院統は、後深草天皇から禅譲(代理人)後小松天皇に至る系統のことを言う。 ここでの禅譲(代理人)は正統に引き継ぐ為の禅譲(代理人)にあたる。

院政を敷いた後嵯峨上皇が、禅譲(代理人)後深草上皇の弟亀山天皇の子孫(大覚寺統)が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、禅譲(代理人)後深草と亀山の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。

 一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔であり(多くは家督を巡って南北に分裂した)北朝正統論が強く、柳原紀光ら公家出身の歴史家の多くが北朝正統論を支持した、また皇室も永く現皇統につながる北朝を正統と考えていたとされ祭祀もその方針で行われていた。明治の歴史学界では、南北朝時代に関して「太平記」の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされた

「太平記」の作者児島高徳が後亀山天皇(南朝)から禅譲(代理人)を受けた時にも後醍醐天皇の継承は児島高徳が正統であると、遺書に書き記している。これは後亀山天皇女が幼少の児島高徳を養育していた事でも、知られ、女方が次の後継になるのは、皇統史の習いである。 名和長年・結城親光・千種忠顕よりも児島高徳が総大将は「太平記」でもわかる。

最終的には「大日本史」の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた
 

文化が閉じられている日本

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月27日(水)21時33分7秒
  古来よりの日本の文化は長き6800年年代にわたって続いていました。
文化が閉じられている日本とは、主無き文化と云われよう。
天主が居て、続く文化は明治になり、断絶し、変りに海賊大室虎吉が明治天皇に
居座っていた。その間には天皇家の入れ替わりが又行われた、

大隈重信と柳原の間に生まれた男が、大正天皇となる、ここには海賊大室虎吉と
の間に、後継は無い。
更に大正天皇「嘉仁」(よしひと)、の子は昭和天皇であるが、妻は久爾宮香淳皇后。
あるのは大室虎吉女方東久邇宮から嫁してきた香淳皇后の関係で皇族ではない。

北白川宮、朝香宮、竹田宮、東久邇宮の4宮家には明治天皇大室虎吉の皇女が嫁がれ
、東久邇宮家には昭和裕仁天皇の皇女が嫁がれている。

久邇宮朝彦親王の第九王子で、1906年に明治天皇の特旨により東久邇宮家を創立し、1915年に明治天皇の第九皇女・泰宮聡子内親王(のち東久邇聡子)と結婚した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6
1947年10月14日に皇籍を離脱し、以降は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。1950年4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府により「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告されたために実質解散となった。その後、色々な事業を行なったが、いずれも成功はしなかった。日本がポツダム宣言を受諾することを昭和天皇が国民に伝えたその翌々日の1945年8月17日、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮が首相に任命された。

この系統
良子(ながこ)女王
  昭和天皇皇后 香淳皇后 今上天皇・常陸宮正仁親王母


邦頼親王ー女:(父:大納言 松木宗美) 1775-1841 貞敬親王ー現代女系
●「ここには邦頼親王は鷹司達子では無く、藤原下級の松木宗美に列なる系図しかない。」


下級官人藤原実衡ー公宗ー実俊ー公永ー実永ー公名ー実遠→
●実遠ー公藤ー実宣ー公朝ー花山院定熙ー宗保ー宗条ー宗顕 ー宗長ー松木宗美 妻培子ー


妃:蓮華心院 鷹司達子(父:関白 鷹司輔平)ー邦頼親王ー伏見宮貞敬親王ー伏見宮邦家親王ー久邇宮朝彦ー邦彦王第二王子で、母は薩摩藩十二代藩主島津忠義の娘俔子。ー久邇宮繼承邦久ー良子皇后と昭和天皇ー今上陛下


美智子さまが“民間“出身
今上陛下もまた、美智子皇后を初めて民間から入る。
皇太子殿下母は橋本和子で海賊大室家から御腹子

皇太子殿下雅子妃殿下“民間“出身
このように正統皇族は天孫の後継者では無い。現に暗殺されている。
以上の如く乗っ取られた文化、なのである、のを知られたい。

「仁」の字は、中国人は(ヨウ1・レン2)と言う
仁の字は、平安時代から続く皇室の伝統の名前ではなく、緯号である。
児島祖頼仁親王は冷泉親王のいなり名である。
http://yomiodani.jugem.jp/?eid=426

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B8%E5%C4%BB%B1%A9%C5%B7%B9%C4/detail.html?from=websearch

皇室とともに育まれてきた和歌や雅楽、四季折々の年中行事などは、日本の伝統
文化の源流?であり、日本文化の成り立ちは、皇室のご存在を抜きに語れません。
皇位が125代にわたって一つの血統で世襲されてきた事実は、日本の歴史の一貫
性を象徴するものです。 ?神社本庁の宣伝に尽きる

全然意味の疎通も無く、神社本庁ともあろう人が発する言葉には本質の日本文化
の成り立ちは見えない。知らないのが実情なのはおかしいです。
ここでは文化の、はきちがえ、ばかりであった。


参考http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B5%D7%ED%EE%CB%AE%B5%D7/detail.html?from=websearch
久邇 邦久(くに くにひさ;明治35年(1902年)3月10日 - 昭和10年(1935年)3月4日)は、日本の華族、陸軍軍人。陸軍歩兵大尉侯爵。久邇宮邦彦王第二王子で、母は薩摩藩十二代藩主島津忠義の娘俔子。兄に朝融王、妹に香淳皇后・三条西信子・大谷智子、弟に東伏見慈洽伯爵がいる。
 

文明文化が閉じられている日本

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月27日(水)19時15分33秒
  文明開化が叫ばれた明治以降に、奇しくも、文明文化が閉じられてしまう。
では開花は無かったのか?そのようです、古来日本は閉じてしまいました、
ここで文明文化のことについて、知らない日本人ばかりで、知らなければ
文明文化の言葉さえ、判らなくなるつまり消えてしまいますので、とりあえず
上げておこう。
日本には「ことわざ」というものがあります、この中に達磨の七転び八起きが
伝わりますが、この意味すら日本人は知らないようです?
言葉どうり、一度倒れても又起きるという解釈もあるが、これも似てはいますが
例えにしているのです。
日本語には神がやどりますから、これがつまり文明なのです、人間創世という
ものです。
ここに人間が誕生する以前にも人間の前進二本足の動物は居たのです。ですが
知能がないので、ただの二本足の動物にしか過ぎなかったという事です。
人間が誕生のことが世界に花開いた文明の起こりなのです。
私たちが軽く文明といいますが、そんな生易しいものではなかったと心に刻んで
居てくださいね。
ではここで文化について、世間での解読評価を少ないけど、どうとらえて、いるの
か、見てみたい?

文化的、習慣的な部分や歴史的時間の中で、美しい文化文明が花開いた都市は、華
麗に栄華の頂点を極める、・・これが現実である。
としていて、先ほどのように軽々しい物言いである。
わが国の文化は文化文明が花開いたのでは無く
『受け継がれた古代の王によるものである。これが根源の本質なのだ。』


『文化とは』文明が花開いてから、知識が神の力で芽生え自然の中から頭脳へと発達
していました。それ以前からあったとするのは軽はずみな口走りになります。
それは文明を知らないのですから、見えないはずなのです。
ですから口走り(嘘つき)になります。
文化とは神々が生み出したものが自然感で、その自然の原理を活かして知識が芽生
えています。これだけでは人間であっても文化とはなりません。
ここが否定の理由です。
何故文化ではないのか、について、
文化もそんな軽はずみな事ではありません、それこそ口走りというものです。
自然観から人間はいろんなものを学びました、それは文明が開化してからまも
なく始まりました。それがイラクチクリス河沿いに起こったメソポタミア文明
が世界で一件でした。
ここメソポタミア文明には神々が天王により生み出され、ました、続いて知識
が、王が取り込んだ農耕から、天文学や色々な頭脳が自然観から、神の力によ
り、与えられます、ここに人間と自然との共存がはじまります。
人間は必ずしも、この神の存在を受け入れきれない者も集団の中に居て、必ず
しも、人間全体に行き渡るものでもありませんでした。
神の存在よりも、現実をうけいれたのですから、これらはつまりは、天王によ
り生み出されたものを、本質として、現実は足元や目先だけという事になります。
天王は始め、ものづくりの時に、陰と陽の関係を保っていましたので、本質も
現実も取り上げていました。受け入れきれない集団は現実だけ、を信じて・・
生活します。
それらは、キリストなる信仰を創ります、然しこれが禁断の実の名残なのです。
本質陽に対し現実陰にあり、どちらも自然観には共存していますから、農耕での
生と死の自然観は当然備えていまして、ここに宇宙の中の自然観から、天の恵み
から、いろんな動植物は生まれ、やがて死を迎える事をメソポタミア人間は教え
られました。ここにも周辺の国々から栄えた都に集まり、そこの加工産物と周辺
の国々から取れる産物を交換しているうちに、ここメソポタミアから、民族の
生活に密着する、知識のの中から、陰の仏(魂、死壮観)を持ち帰り民族の信仰と
しました。この中のある民族にインドの平原の山岳民族も岩塩と動物の毛皮と
交換するうち、加工産物が自分の国にも採れることを知り、これらを交易の材料
として、生活していた、ドラピタ民と名された集団の国では、同じように、
生活に密着する、知識のの中から、陰の仏(魂、死壮観)を持ち帰り民族の信仰と
しました。これが菩薩信仰のことになります。
ここには、人間の行いの姿があり、生死から、又生まれ変わるという信仰を受け
入れて、いたことから、後に自分達の国が侵略され、たことに基点を置き、
達磨の七転び八起きが生まれています。
これは、生死の関係を表わしたもので、自然観にはなりません、何故ならここに
は、人間関係はなく、知りえた事で七転び八起きの、生まれて死んで又生まれる、
事だけで、ここには宇宙の自然観はありませんでした、それが後のドラピタ民の
異号である、国名の夷人へと移り民族が移動しました。それはインドラの夷とな
る。ここにインドラの菩薩の起こりがのこされていた。ここにも現実が見えている。
 

神社の有り方に疑惑

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月25日(月)15時56分28秒
  現在日本の神社は数え切れないほど、造られている。
外見上では何の変化もなく、疑惑すら感じさせないものがある。
ここで国民に知らせたいものがある。
それは神社はどのようなあり方だろうか?が、
現代ではかけ離れてしまっていたのです。
日本人から遠ざかってしまった、日本の制度文化では、神々はただ外見上でしか、ありません。
神々はただ外見上でしか、ありませんとは、日本の制度が変わらせられたとでも申しておきましょう。
その為に二度の災難の末、日本民族から神への人心は遠ざけられてしまいました。
明治には外見上だけは残しながらも、祭祀が執り行われていないのです。
勿論伊勢神宮でもそれは同じです。
伊勢神宮さえもが占拠されていたのです。
ここは、明治の時に占拠されて、いと久しく、神殿は荒らされ尽くし、土足で立ち入る不貞のやからにより、限りなく神社庁や宮内庁なる、占拠派により、立ち入りさえ(法律教育勅語)を作成して禁止しました。
この為に、正統なる天孫も、立ち入る事も出来なく、監視の目は遠く迄張り巡らせて、強化して今日に至ります。
このような不具合から、天孫中心の神々の祭祀が途絶えた状態になっております。
ここに日本全国の総社たる伊勢神宮を始めとする、すべての神社では、天孫に拘わり無く、立ち振る舞いの憂き目にあっている状態です。
挙句の果てには、天孫の名を使い、系図から紋章にいたるものまで、恐れ多いことに
自分の家のものとしています。
更に明治より宮家を創設し今日に至ります。
ここでは宮家本来の持つ、役目とは裏腹に、外見皇室直属の一族たる所以で持って、日本の名に恥じた行為を繰り返しています。
ですから現代日本の神社の有り方にも不当が生じているのです。
これでは日本人としての誇りすら無きものとなりましょう。
 

モノや金に幸福度の尺度に幸せはこない

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)14時17分49秒
  モノや金」は従って「貧困」の一部しか解決しない。
一方的に与えられたモノや金はそれを使ってしまえばお終いである。
モノや金だけではない、より豊かな人生が送れると思うのである。
貧困問題の解決にならない
ヒト(主体、資源)が中心にあって、モノや金は外側に置かれる。
ヒトが自然に育って行くシステムをどうするかが重要である。

安陪のいうモノや金、人の関係では豊かな人間性は生まれない。
「人」がモノや金を活かすわけですからこれが一番大事なことだ。

安倍晋三氏、講演でモノや金、人の移動を自由にすれば消費者人口は増える?
思想は反対の事を出していて、自由を弾圧した現在、自由という言葉は、あり
えない、限られた者だけの特権でしかそこにはない。たぶらかしである。

弾圧されたものが、生活出来ないのは、現にあり、一人では子供は産まれない。
心のふれあいこそが真の幸福度の尺度なのだ。
モノや金では人は満たされない 消費者人口は増える?って、

人間の心つまり精神面が高まれば、おのずと仕事
に誇りが持てるようになる、それによって生産性が高まり、経済も豊かになる
これが本当で安陪はた(ぶらかし)に、しか過ぎないのである。

やはり人間の社会はモノや金が支配するんだな、奇妙な国でもその理屈は変わらなかった
ということだね」
腐った安倍晋三一族にはこの事は通じなかったのは特権階級で生活していたから。
国民の事等何等わかりもしないで、安倍晋三はいいことばかりの自分の事で物
を見つめている。政治とはそんな生易しいものではない。
人を犠牲にして生きてきた家には到底解るはずもなし。
施すことという意味にとられるが、もともと
は、自分を省みず、他のために尽くすことをいい、現代的には「奉仕の精神」
と置き換えてよい。が政治家の場合はモノや金で成り立てている現代に国民
は皆その犠牲者になる。

今大変な勢いで、モノや金が世界中で動いています。このなかで利益還元で
金儲けをえようとしているが、モノや金ではそれを使ってしまえば日本は
お終いである。

モノや金には限界があることを知らねば人のモノに手をつけ海賊戦争になる。
人やモノや金が国という枠組みを越えて動くようになってきて、単なる一つの
都市の単位での事ではすまなくなったということです。人間にも限界がある。

だから現代小泉改革がされているが、この内容には、モノや金に幸福度の尺度で
しかないので、あるから、モノや金の力で屈服させるであろう事は、消費税が
アップしたり、税金の負担率が上奏するしかないので、国民は苦難になる。
破滅への赤信号なのだ。
 

モノや金に幸福度の尺度に幸せはこない

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)13時41分4秒
  モノや金」は従って「貧困」の一部しか解決しない。
一方的に与えられたモノや金はそれを使ってしまえばお終いである。
モノや金だけではない、より豊かな人生が送れると思うのである。
貧困問題の解決にならない
ヒト(主体、資源)が中心にあって、モノや金は外側に置かれる。
ヒトが自然に育って行くシステムをどうするかが重要である。
安陪のいうモノや金、人の関係では豊かな人間性は生まれない。
「人」がモノや金を活かすわけですからこれが一番大事なことだ。

安倍晋三氏、講演でモノや金、人の移動を自由にすれば消費者人口は増える?
思想は反対の事を出していて、自由を弾圧した
 

幕府教育とは何か?

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)11時50分4秒
  寺子屋では読み聞かせなど子どもの健全育成のため、子どもの豊かな人間性
を育み高齢者等の生きがいや健康の増進を図る等。
江戸時代の庶民教育を支えていた寺子屋http://www.tanken.com/terakoya.html
寺子屋では習字が最も重要な科目
教育って本来、生きるのに必要不可欠なことを教えるところから始まった。


一、教育勅語は明治23年戦後、当然ながら悪の象徴神格的取り扱いが禁止
  http://www.tanken.com/cyokugo.html

弐、教育基本法の成立 http://www.tanken.com/kyoiku.html
  教育基本法はGHQの命令によって成立

参、安陪の推し進める、「美しい国、自立と規範を知る知る凛とした国」
   とは教育勅語の復活である事は解る。

これらを見比べると大きな異なりがみえるであろう。

児島宮寺子屋・仏神やご先祖様や社会や自然に対する感謝の心を起こさせる
江戸時代中期になり経済が発達し商人や農民の間でも、「読み、書き」
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/009.html
靴をそろえて脱ぐなどの礼儀作法
寺子屋では身分や年齢にかかわらず、誰もが、いつからでも「手習い」ができた。
寺子屋では、現在の学校のような一斉授業ではなく、師匠が子どもをひとりずつ
指導するマンツーマン教育が行われていたことをご存知でしょうか?

寺子屋では僧侶・神官・医者のほか、浪人や百姓・町人で教養ある文人が師匠となり、
往来物(初等教科書)を使って授業がおこなわれました。
寺子屋では、いわゆる「読み・書き・そろばん」の手習いや、封建社会で庶民
が生きていくのに必要な知識や生活の知恵を教えました。

人間は「脳・身体・心」の三つから成り立っているとする法則など。


江戸幕府が幕臣の子弟を教育するために設置した、儒学朱子正学
藩学は、朱子学を主とする儒学の講義や武術を授けるものが大半であった。
江戸では手習所と呼ばれていた
寺子屋は、村役人・神職・僧侶・裕福な町人などによって経営され、読み・書き・そろばんなどの日常生活に役立つ教育を行い、道徳を教えたとされる。
封建社会で庶民が生きていくのに必要な知識や生活の知恵など、極めて実用的な職業教育

運営形態は、教師の自発的な善意・使命感に基づくものである。


要綱まずは親のしぐさ・行動を見習わせることが肝要であるとした。6〜7歳になると、寺子屋では、自発的に師匠・親・兄弟姉妹・世間を見つめ見取るように仕向け、観察力・洞察力を涵養、9歳までには、公的挨拶の習得を目指し、立居振舞を体得させた。8〜9歳では師匠の口真似、10歳には説教の内容の咀嚼が目安とされた。12歳頃には、一家の主の代筆を担える程度の事務作業能力を目指し、15歳頃には、経済・物理・科学など森羅万象を実感として理解できるようになることを想定して指導にあたった。

寺子屋教育では、単なる技術習得だけなされたのではなく、道徳的価値観の涵養が十分に取り入れられていたのである。
寺子屋では、幾人かの生徒がいても、それぞれの進度でそれぞれに学習し、個々に指導


「朋との交わりにも言笑を絶ち、妻子を親しみ習ふをもやむ」道真
妻子を大切にあつかうとしている。

江戸しぐさ とは「江戸っ子のクセ」だそうです。
「なくて ななくせ、あって しじゅう八くせ」
くせ。漢字で書くと「癖」
漢音では「へき」と読み、呉音では「ひゃく」と読む。
なんて江戸の寺子屋では教えた
http://www.creatorsworld.net/webrensai/ise/index.html
 

真の教育とは何か?

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)11時08分14秒
  江戸幕府が立てた、学問所に始まる、子供の教育は主な主題が豊かさの尺度その
ものである。
幕府はこうして人間づくりに着目し、自然の気象原理による飢饉対策に、先ず
とりくんだのが、子供の教育であとをになう、子供に教える事にあったが、、
現代の学問とは異なり、豊かさの尺度での国が国の柱にしているのは伝統の
継承を尺度にしている事にある。

では現代の明治以降の学問とは、国民総生産にあり、西洋の文化の継承から
はじめられた。
明治以後に
尺度が豊かさの尺度をモノや金に検算された、、「美しい国、自立と規範を
知る知る凛とした国」であり、愛国心と教育勅語に見られる、国家権力に
よる国民の警察を用いて、国民を恐れガラセルのは、弾圧の本体である。
明治以降国家権力は三権分立や宮内庁神社庁宗教法人検察庁などはすべてが、
国家権力の総元締めになっている。
これで国民を制圧し、弾圧しているのであろう。
 

豊かさの伝統継承を尺度にしている事にある

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)10時48分1秒
  日本の起こりは、邪馬臺國からで、ここにあるものは、祝詞でもお馴染みの
豊葦原の国を夜須国と改めと、いうのは豊かさの尺度そのものである。
この尺度が耶麻天文学からきている。これが邪馬臺國の起こり。

モノや金に幸福度の尺度での安陪晋三の、教育法改正を優先にするやインド洋
での米軍フリーメイソン国の支援を打ち出した。これがテロなのか、テロに
手貸した日本でしかないのだ。又麻生の主要ポストは系図で見れば判り、身内
皇室に甘い、態度が見えた。小泉のやったことは自民党をぶっ壊すではない?

壊したのは?日本の大切な伝統の継承尺度だけにしか過ぎない。
如何に日本が、何処にすすもうとしているのか慎重に判断しなければ、この国
から笑顔が消えていくであろう。
小泉はこう断言しているが、自民党をぶっ壊したし、郵政解散後の「抵抗勢力」
と決め付け、たが
これは弾圧の始まりで、あることはすでに右翼の暴力による弾圧が小泉周辺から
発せられたのであろうが、現代は日本の国の尺度が変化しモノや金の力で屈服
させる方式が実際、最近の
「加藤紘一氏宅に放火したばかりか、目的は自民党公明党が加藤紘
一氏への弾圧が目的であった事は、今日未明のマスコミで、中真紀子衆院議員
元外相宅に、関西弁の男の声で、「お前の口を金属バットでたたきつぶし
てやるぞ」と脅迫電話があった。
これと同じ目的が今回も手始めにという事で、安陪の取り巻き連中が起こした
のは間違いないであろう。
察するに検察庁も検察庁なら、検察庁は暴力団と何等代わりが無いのであるから
政治家に雇われた暴力検察事になる。
ここではっきりしたわけだから、酒飲みがついやったで終わらせる出あろう。
現代の日本人は見て見らぬふりをしていると外国人は知っているから、
日本とは物騒な国の野蛮人と罵られるであろう。」ではっきりしている。

小泉の歩みは家庭の崩壊を招いたのと、日本の崩壊を招いた大学の民営化は
こうした、歴史の反動結果でもある。小泉自民党公明党の真の狙いはここに
あり、日本人の教育の廃棄に等しいのに、早く気がつかねば、安陪晋三の進
める今回の臨時国会で教基法改正をと上げていて、「美しい国、自立と規範を
知る知る凛とした国」が国民に支持されたと思うと述べた。
これはあくまでも、モノや金に幸福度の尺度での安陪晋三の指針であり、長州
民の歓迎とは裏腹に、
ソビエトや帝国アメリカ英国のような原始民族の時代へ逆戻りし、原点の避難
民イスラエル如きになり、他国侵略の道しか、子孫には残されないであろう。
 

日本の豊かさの尺度

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)09時57分20秒
  世界の国々の満足度が分析(ぶんせき)が示されデンマークスイスの欧州が
上位米国は23位日本は90位、不思議にブータン8位で日本の50分の一
に満たない国が国の柱にしているのは
伝統の継承を尺度にしている事にある。日本はどうかといえば、明治以後に
尺度が豊かさの尺度をモノや金に幸福度としていたので、世の中がバブル崩壊
や、悲惨な事件が連発して起こり、恥知らぬ、国民になって、日本人が自由と
いう豊かさの為に、歴史継承文化が変わりに棄てられて失われていたせいで
ある。
安陪晋三は言う、小泉指針の継承と美しい国と愛国心教育改革は、明治思想の
繰り返しにしか過ぎないので、何も期待にならないであろう。
国民総生産(JNP)が田布施達が民権運動を説いた経過であろうに、その後
戦争の歴史が繰り返されたのと共通しているので、
必ず日本は小泉指針の継承と美しい国と愛国心教育改革道州制は国民総生産(
JNP)方式であり、社会全体がますます悪化するだろう。
日本の革命や民営化は日本の伝統の継承を尺度を棄て、JNP自由制度)方式
にしていけば、日本民族は、滅びるであろう。

これは豊かさの歴史継承文化尺度を、明治民権運動で革命を起こした長州田布
施村の皆は、現代の岸一族の安陪に期待し、喜ぶのは、代わりに日本民族まで
犠牲にしても、喜ぶのであろうか?これではモノや金に幸福度が町全体の体質か?
その答えは後の歴史が示すであろう。ここに日本民族のあり方尺度が問われる。
ただ一言、安陪晋三は本当に祖父岸信介に協賛し、自分も見習うとしているが、
これが本当なら、歴史は又繰り返すであろう。
 

宗教法人が制定され、日本の歴史ではない

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月21日(木)08時11分41秒
  現代日本の実情を知ろう
明治大正昭和平成に至る日本ではなくなった。
その裏にあるものを正しても国民いやそれは違う、日本国民が居るのではなく
、今居るのはたふせの民族でしかない。
この民族とは古代より、事かなれ主義で暮らしてきたので、同化されずに、今日
までつづき、仲間を増殖していた、これが明治人権運動であった。
この人権運動は一般の同化人ではなく、一部にすか過ぎなかったものが、ある
時期に、飢饉が起こりそこに、この田布施達が民権運動を世間に先導し、それが
高山九彦郎であった。飢饉に心を利用した英国留学者が説いた、1800年代の
革命に、世界であれまくった、運動に影響されたのであった。
帰国した英国留学者は朝廷と幕府のあり方は、おこっている外国内の王室に反動
し、古代よりの制度に、反抗した運動であるから、次々と王室は倒壊していた。
これが世界に長く続いた王室は倒壊し、ここに一般の革命家による、制度が入れ
替わる。英国の成り立ちは古くなく、王室も近代様式の国であったことから、
歴史に列する国々とは、異なるものがある。
革命の火種はフランスの王室倒壊も、飢饉により、隣国であるフランスの民族に
影響し、て次々と起こっていった。
この時期に英国にはフリーメイソンユダヤなる者か王室に拘わっていた、事が
日本から留学していた留学者は、この国の近代化自由に芽生え、それを帰国後
藩外に、学問所に、商工の子供達が通って居た事から、次第に庶民へ、新しい
時代について説いた時代幕末の頃で、ここに民権運動が飢饉に重なり朝廷と
幕府のあり方に、反抗する、田布施の民が、幕府の教習所に居た吉田に連結し
当時までの、由緒正しい朝廷と幕府を崩壊させて、鎌倉以降の吉田家を回復し
制度を仕切る目的に、丁度ころあいが、良かった。
ここに幕末の動乱にことより、吉田家に近い長州田布施と島津田布施民が決起
し行動を起こす前に、当時英国の商売人は日本の開国を狙っていたので、王室
はフリーメイソンユダヤに働きかけて、助成を民権運動家にする事になり。
戦闘用具を民権運動家に提供する代わりに、日本の歴史を抹殺せよ、そして
新しい国を作れと、意気が統合して、次々と日本の商家の金力者も仲間に誘い
ここに華族が明治に生まれた。
日本という時代がここに終わり、民権運動で朝廷と幕府を崩壊した、と共に、
フリーメイソンユダヤの狙いどうりに、新しい時代になる代わりに、これを
フリーメイソンユダヤ原始商法利益還元された、其処には犠牲者日本の歴史
神々が、新しい明治教育勅語で、新しい制度と、新しい宮内庁や神社庁や
宗教法人が制定され、日本の歴史ではない、革命宮内庁や神社庁や宗教法人
制度に改定されていた。
これは新しい時代の変わりに幕府が開いた学習所が、実際は日本の歴史に
幕を下ろす結果になてしまった。
 

越王の後継が夜須に稲作を広げた

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月17日(日)13時24分16秒
  夜須に稲作を広げたのは、邪馬台国を知っていたからできたのである。
稲作には知ってのとおり、いろんな道具がなければ、ならない。
騒がれている邪馬台国には表の邪馬台国しか、見えていないので距離数や
魏志倭人伝範囲で、遊んでいるようなもの。これは大人のおもちゃにしかならない。
それに付き合ってもじかんの無駄になるだけ。
づけ
ここからは稲作に伴う鉄器と蔵の高床式倉庫や稲を蒸す竈と甑が必要で、夜須や
古代稲作の産地中国では、これらが同じ形でなければ、表だけのことになるが、
ちゃんと裏があり、竈と甑と高床式建物が夜須全体に、発掘されている。
これは「古代中国かとば遺蹟」にも夜須と同じものが見られる。

この時期は原始時代とは違う、夏王朝にも見られる文明が発達していて、日本
全体には何処の土地にもそれが見られない。
ここで邪馬台国(宇宙天文学)と稲作の関係について、述べよう。
宇宙天文学は別の呼び方を耶麻壱としていて、この耶麻壱とは伊勢でも知られる
太一のことである。
太一こそ邪馬台国である。
太一とは太一とは、文字通り北極星である。
伊勢神宮の習俗ではこの太一の文字がさまざまなところに登場するという。
遷宮に関連した杣始祭(そまはじめまつり)にも太一の文字の幟(のぼり)がたつ。
これがわが国で最初に夜須で始まったのはいうまでもなく、歴史の一歩が
この夜須町なのだから。
太一は神々が現われることを意味している。
神々は祭礼の時だけにあわれれるとされている。
北斗七星はそもそも中国の学名で、日本では「七つ星」北極星は「一つ星」といっていた。
北斗七星は北極星のまわりを一日に一回転する。
北斗七星のひしゃくは現在神社の手洗い場に設けてあるひしゃくが習う。
北極星は古来「不動」を意味していた。太一はここに神々が現われることを
意味している。
原初の一点をさして太一(太乙)ともいう。
または、「紫微宮」とした。北方が紫とされ、最貴の方位、最高の色とする。
北極星を太一神として、最も尊い神として崇拝した。
伊勢神宮の神事において、太一(北辰)を天照大神(あまてらすおおみかみ)、北斗は豊受大神(とようけのおおかみ)にみごとに習合している。
神嘗祭(かんなめさい)は旧暦九月一六日(10/22 0:00)「子の刻」、一七日の「午の刻」(10/22 12:00)に行われ、北斗七星の剣先がそれぞれ真北、真南にある時に執り行われる。 宇宙(天)に聖なる構図が描かれている時刻を選んでいることになる。
北極星はこぐま座、北斗七星はおおくま座
太一とはつまり北極星のことで、古代人はそれを風雨、水害、干ばつ、飢饉、戦争、
疫病、災害をつかさどる最高の天神と見なしていた。これが児島宮の先人である。
星を農業の主宰神と見なしていた。
 

越王の後継が夜須に、稲作をひろめた

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月12日(火)20時59分42秒
  〜七夕の起源〜
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(現在のお盆)に中国から伝来した乞巧奠<;きこうでん>などが習合したものと考えられています。
尚こうも七夕の歌が日本にのこるのかと、いえば稲作が始まる時に弥生後期に朝倉郡夜須に
移動してきた、越王の後継がここに、稲作をひろめたのが、わが国の歴史に、残る七夕儀礼であった。
田んぼにでかけ、柄杓で露を掬い取る行事は、口寄せで残した本式の七夕儀礼でこれが、天文学の柄杓星座となったもの。
 

隈の処夜須の語源は稲作開始

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月12日(火)20時46分13秒
  隈の処とは山野に群生するイネ科の植物です。
七夕の歌にもあるように、
ささのは、さらさら、なにわに、ゆれるとは、田んぼの稲が(笹の葉で詠まれる)ことで、この歌には稲の豊かさが、


万葉集には130首を越える七夕の歌があります。
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/tanabata/home.html
これは稲作農耕の天文学の歌であるが、天の川安の川の語源は夜須の都の後が読まれている。2033: 天の川安の川原定而神競者磨待無

[七夕歌について]
約三千年前、中国の「周」時代の詩を書き連ねた「詩経」という文書の中に牽牛・織女の事が取り上げられているのが最初と言われています。
http://www.yuko.ne.jp/tanabata/linkpage3.htm#uta

古代天の川の周辺は底湿地で稲作が行われており、その稲作を讃えて「甘野川」と読んでいましたが、清流が太陽に照らされて川床の小石が銀河のようにキラキラと輝いて見えたことから宇宙の銀河になぞらえて、天の川と名付けられたと云われています。
この地こそ安邑こと現朝倉郡夜須町の地名である。

宇宙の天の川に対して野に流れる川の意味で命名された

笹飾りは、もともと七夕行事で稲に変えて笹が用いられていたのが始まり。
元は、田の虫避けなどの農事儀式として古くから伝えられたものです。
七夕の歌にもある 「五色の短冊」。もとは五色の布が使われていたとか。

笹の葉 さらさら のきばに ゆれる
お星さま キラキラ 金銀砂子(すなご)

五色(ごしき)の  たんざく わたしが 書いた
お星さま キラキラ 空から 見てる
七夕の由来
いまから2000年前にはすでに中国で成立していた伝説だといわれています。機織りに励んだ天上の織女にちなんで、星に技芸の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」という宮中行事が生まれ、日本へと伝わりました。
稲作の七夕伝説は筑紫から稲作開始と同時に、儀礼がはじまったもので、現小郡横隈に七夕伝説が残っている。妙見さまでも知られる七夕伝説には稲作が共有している。
元来は中国から伝来したものにあらず、夜須に中国から移動してきた祖先が、広めたのが正しい。
七夕の歌にある笹とは稲の葉を表わし、さらさらゆれる、葉についた(つゆ)をひやくし、で掬い取るのが、本来のあり方である。短冊に露の一滴を硯で溶くのが昔の習い事。
又柄杓氏も七夕とは縁が深い星座であるのが、あまり知られていない。
相撲も七夕の行事相撲節会(すまいのせちえ)宮中の行事

乞巧奠(きこうでん)
中国から伝わった宮中の行事、乞巧奠。朝倉郡夜須が発火点である。宮中の行事
旧暦7月7日というと、現在では8月の末
万葉集でたなばたは他に「織女」と書かれておりますが、新古今和歌集では「七夕」となっています。このことから「七夕」の字は平安時代に当てられたものであることがわかります。
万葉集/巻11-2628
古(いにしえ)の 倭文機帯(しつはたおび)を 結(むす)び垂れたれ 誰(たれ)といふ人も 君には益(ま)さじ

万葉集・巻3-431
 古(いにしえ)に 在(あ)りけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解きかへて 伏屋(ふせや)立て 妻問いしけむ 葛飾(かつしか)の 真間の手児名(てこな)が 奥(おく)つ城(き)を こことは聞けど 真木(まきば)の葉や 茂(しげ)りたるらむ
 松の根や 遠く久しき 言のみも 名のみもわれは 忘れえなくに
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/tn00j3.htm

正倉院宝物・「七孔針」
正倉院宝物の中に「七孔針」と呼ばれる三本の長い針と四本の短い針がセットになったものがあります。三は陽(男性)を表し、四は陰(女性)を表すものと推測されます。
 

筑前町東小田に足跡が残されているのが見える。

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月12日(火)19時55分15秒
  仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」
は本来神々にはならないもので、仁徳天皇は神武系にあらず、夫須美で、ふ、須美(菩薩信仰をしていた天皇であった)
ここで須美とは仏壇の須美のことを表わしていて、神々の系統ではないのです。故に、この天皇自身奈良に住んでいたのではなくて、九州内の倭国であろう。
今も筑前町東小田に足跡が残されているのが見える。
これは応神天皇母方の故地にあたるともいえよう。

神武と熊野が大和政権の出発点であるが、ここが耶麻との接点筑紫の神武東征の、明かしがこの熊野大社に秘められていた。
何が紐解くものでも発見したかといっても、示すものがあれば、とっくの昔から、邪馬台国問題も解決しているはずなのだが、
一向に解決策が見えないのに、神がくれのコウデン(口寄せ)が天子の請け合いで継承されている。それが現在福岡県朝倉の一宮に伝わっていた。
これが利用されると、偽者達の証拠が区別できなくなる。
それではこの熊野大社の中に何か残されているものはないのか、調べてみると、以外にもそれは、耶麻と筑紫をつなぐ、一本の糸である、神のご神体に
見られる。
神額に根本熊野三所権現なるものがある。
この三所とは耶麻のご神体のことで、耶麻の母体になっている。
これが大和での神武の耶麻一の、神殿という意味合いになる。
幾内奈良が邪馬台国のことにあらず、神武の耶麻国が本来の姿である。
http://www2.ocn.ne.jp/~sanzan/NTTcontents/hongu/
左右に昇竜・降竜を配した木製額は宇宙の陰陽を表わしたものである。
これが対等の耶麻信仰の日本第一とは後鳥羽院が当社を公的に『日本一』と認めた事に依る。
能は神事の耶麻縁起のことで、対等な縁起の舞いである。
単一の現代社会と比べてみれば、いかに古来の日本人と現代単一人間の世と、かけ離れています。
耶麻の画数は複数からなるが、単一は自民党や公明党の談合同じ塊は一つでしかありません。それが自由主義のありかたなのだから、古代の宮廷には右近と左近の複数から、成り立っていたが、現代の皇室は単一だけの皇室であり、神と天皇の根底は何もない。
これはいいかえれば、皇室の先祖は東京しか、ありえなくなるのは、偽者である。天皇には複数の画数で構成されるからである。
対等な縁起の舞いに般若面があるがこれは再生を表わすものである。

熊野三所三山権現には
熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。

神武熊野本宮に遅れること景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮熊野速玉大社の二番目に造られた神殿。『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味
以上が熊野三所権現で三箇所で本宮が神の拠り所にあたり、二箇所の権現は
対等な神々に由来している。

「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが
これは後で作られたものであることは、原始夷人では単一の魂しか存在していなく、祠で神卸だけの儀礼でしかないのです。
原始とは神々にあらず唯一単一仏なり。

日本第一とは熊野本宮を指している。
第二は速玉大社上り権現
第三は那智下り権現

これが三所権現の画数宇宙天文学の神々の住みかなのです。
まだ他にも先んじる神々は伊都と夜須松峡宮に熊野本宮であった。
 

篠隈(しのくま)地名由来

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月12日(火)19時52分53秒
  隈の処
熊野という地名は「隈の処」(地の涯)という語源から発しているといわれている。「クマ」は「カミ」と同じ語
神武天皇(磐余彦命)が、熊野から大和国へ侵攻するとき、深く険しい山越えを天照大神が遣わした3本足の八咫鳥の案内で、無事大和にはいることができたという。
隈笹の隈とは、越年すると葉の回りに白い“隈取り”ができることから来ているそうです。
筑前町の篠隈の地名は新しいが慶長六年に佐久間甚九郎正成が付けた地名。
この佐久間は古来児島宮家の本性で、頼仁親王(冷泉宮・児島宮)
代々児島で、高徳(祖父範長名跡)ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安

近衛「左近衛中将藤原助安」より、満盛朝明子朝次弥平次
になり、甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成に至り、ここに相伝の隈笹が篠隈(しのくま)になったもの。

隈の処とは山野に群生するイネ科の植物です。
古代で最初に稲作が始まりここに隈の処(イネ科の植物)が地名となる。
口寄せはあまり知られていないもので、言葉には神々の言葉が秘められているのです。

隈笹(くまささ)

日本人の食文化の中で、笹は色々な形で使われてきました。
笹だんごはもち米とうるち米とを半々にまぜ、よもぎを入れて笹の葉に包んだもので「ちまき」端午の節句がある。

又古代では埋葬のやり方 は隈とは、物陰、隠れる所のことである
墳墓が有ると隈とは. 単に“すみそこに魂が寄り集まり宿るところなのです。万葉集
隈とは陰の事。

又歌舞伎では
隈取り、赤で書かれている場合は勇気や正義を意味し、
青(藍)で書かれてるのが悪、邪悪とか非道ってこと。

又遺蹟では地域が隈とは呼ばれますが、横隈には墓があるように、古代の遺蹟墳墓の地を現すもの。地名
 

夫との血縁関係

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 9日(土)12時12分5秒
  正統なる天皇は継体天皇子息欽明天皇
石姫と欽明天皇の間にも、敏達天皇がおはした。御子の貝鮹姫は、(聖徳太子妃)となり、
外戚となられた。

聖徳太子外戚貝鮹姫が居て、茅渟王を生まれた、
推古と敏達の間に生まれた貝鮹姫は、用明天皇子(聖徳太子妃)となられた。
堅塩姫=欽明天皇の間にも推古女帝が生まれ、敏達天皇の皇后となる。

用明天皇は(堅塩姫の子)間人皇女と結ばれ、間に聖徳太子が生まれた。

吉備姫王=茅渟王の間に孝徳天皇と斉明天皇が生まれた。
 

敏達天皇の皇后・額田部皇女推古天皇

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 9日(土)11時51分17秒
  外戚の天皇という事になる用明天皇の即位。●
ここに事件が展開していく。

☆継体天皇と蘇我稲目外戚から、事件へと繋がっていく。
正統なる天皇は継体天皇子息欽明天皇に蘇我稲目外戚から、堅塩姫=欽明天皇が結ばれた。
ここに、●外戚蘇我稲目が誕生した、
一方継体天皇宣化天皇の間にも、天皇後継は受け継がれていて、石姫と欽明天皇の間にも、
敏達天皇がおはした。

堅塩姫=欽明天皇の間にも推古女帝が生まれ、敏達天皇の皇后となる。
外戚推古女帝側は敏達天皇の間に、貝鮹姫が生まれた、そして、(聖徳太子妃)となった。
ここに聖徳太子外戚が居て、茅渟王をもうけられた。
やがて、茅渟王は外戚側の吉備姫王との間に、孝徳天皇と斉明天皇をお生みになられた。
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/yomei-sokui.htm

☆一方正統天皇継承された、敏達天皇は広姫との間に、彦人皇子をお生みになられた。
彦人皇子は舒明天皇を正統天皇継承され、外戚から吉備姫王===茅渟王の間に生まれた斉明天皇を迎えられた。

蘇我稲目                 継体天皇
      |                    |
   +−−+−−+               +−+−−+
   |     |               |    |
   |   小姉君===============欽    |
   |        |   蘇我稲目     明   宣化天皇
  蘇我馬子      |    |       天    |
   |        |   堅塩姫======皇====石姫
   |        |        |     |
 +−+−+   +−−+−−+  +−−+−−+  |
 | | |   |  |  |  |  |  |  |
 | |河上  崇峻 穴穂部 間人 用明 桜井 推古 敏達
 | | 娘==天皇 皇子  皇女=天皇 皇子 天皇=天皇====広姫
 | |             |   |    |    |
 |刀自古==========聖徳太子  |   貝鮹姫  彦人皇子
 |        |          |(聖徳太子妃)  |
 蘇我毛人    山背皇子        |      +−−+−+
 |                 吉備姫王===茅渟王    |
 蘇我入鹿                  |         |
                 +−−−−−+−+       |
                 |       |       |
                孝徳天皇   斉明天皇=====舒明天皇
                            |
                        天智天皇・天武天皇

穴穂部皇子や崇峻天皇や間人皇女や聖徳太子や山背皇子や蘇我入鹿は皆天皇の外戚にあたる。
事件を契機に穴穂部皇子が物部と近い関係になったことで、次期天皇をめぐる争いとしては、厩戸を担ぎ出したい蘇我馬子と、盟友となった穴穂部を立てて政治の実権を回復したい物部守屋との間の対立という構図になってきます。
推古天皇も無論天皇外戚の関係にあたる。
 

王と天地の法則

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 7日(木)08時25分55秒
  宇宙のなかには、物体から成っている、天と地の二代要素があるように、すべての中にも二代要素、で成り立っている。
これが始まるのが、農耕神の登場からで、此れを天地の法則とよんでいた。
この中には物事に始まる、善に対し悪で構成され、歴史に於いても、前斯と後撹それぞれ、も時には表れている。
人間にも男と女が居るように、物事が対立しているので、どちらが?前斯と後撹なのか?迷うので、農耕神を誕生させた王は、価値感の基準を儲け、二代要素の間に天体の要素から、中心を定めた。これで三つの文法が生まれた。
歴史で見るものには、二代要素しか存在していません、のでどちらが正しいのか、解からないのです。
日本の歴史も、このように、作られていたのを、見つける事は、中々出来ない。
ここに、神々の三つの文法でしか解決しないことさえも、容易ではない。
そこには人間のあり方に左右される現象が起こっているからで、大切なものが、重要となります。人間には何が大切なのか、人間らしさとは、何なのかが大切なものになります。
ここには、やはり王の三つの文法でしか解決の道は決めがたいのです。

天皇の歴史も確実なものではありません、人間らしさとは三つの文法が、備わっているから人間の位置に居座る事が出来ます。
人間すべてが公平ではないのです、人間の姿をした後撹も、いるのです、これを鬼と呼んでいます。
二本足の鬼が、人間の世界に現れて、惑わし続けて、いるのです。この為に人間さえも自己の判断が出来ていないのは、現代日本が、日本の後撹にあるからという事も、解かる二次(新)人間では、不可能が生じています。

天皇後継も、二次(新)人間、で決めようと目論んで、います。これは二本足の鬼魔王達が裏で糸を引いて、居る為に引き起こされています。人間の二本足の鬼魔王の世に現代は、於かれているのです。それはこの国に住む人間は、皆鬼魔王に侵されていると、いう事になります。天皇は神々の世界でしか、決められない事を知らない、
鬼魔王達は、当たり前かのように、学者や文化人で組織を作り、皇室典範改正まで、作り変えようと目論んでいます。

この事を知らなければ、この国には、人間の住処ではなくなり、鬼魔王の手下にしか過ぎません。ここでは学問も太刀打ちできないでしょう、学問には三つの文法は、ないからです。
ここで誰が決めるかが大切なのだが、鬼魔王では死の世界なので、下すことすら出来ません

では天皇のご判断に任せる?おやおや、ここにも理不尽な事が起きていますね。
現代の皇室すら、何者か?この国に住む鬼魔王や手下では、侵されていて無理がある。
ここに現代日本の病の巣がある。

歴研会では昔から取り上げてきましたが、矢張り無理が起こっていました。この国には人間は住んでいなかったと、いう事です。ですから、
いろんな事を試みで歴史の二代要素を、論じても無理がある事を自覚しています。
でも、この国が侵されているのを,ただ見据わっていても、自己が鬼魔王の世界へ陥ってしまいますので、あきらめられないのです。
ここで現代日本人すべてが、自己を自覚でき、美しい国日本を取り戻す事を願っています。
 

天武王朝体制の壊滅

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時14分42秒
  藤原不比等は持統天皇を懐柔して、蘇我王朝の流れにある天武王朝体制の壊滅を
目指すのです。そのひとつが、日本書記の作成(720年完成)です。

天皇家は万世一系であると言われていますが、壬申の乱(672年)後と明治維新(1868年)とで、天皇家の血脈が二度取り替わっているようです。
「海賊系」大室寅之祐が明治天皇に変身した、と敗者の歴史では語られているようです。
万世一系であるはずの現在の天皇家も「神道派」ではなく、「仏教派」でなくてはならないわけです。
伊勢神宮は皇室の氏神であり天皇家の祖神をまつる神社
古代以来永年にわたって天皇の神宮参拝の事実がなかったのに、明治になってはじめて参拝があったのは、神宮と天皇、神宮と国家との関係が変化し、神宮自体の性格もそれまでとは変わったことを示すものにほかならない。
伊勢神宮に奉仕する王権の皇女、王女が斎王として送り込ませたのは、七世紀後半の天武天皇時代からです。しかし、後醍醐天皇の時代(1318年)以降は、その制度は廃絶されてしまい、再開されたのは、明治二年であったのです。
そこには、皇統の断絶が見えています。ではなくなったかというと、そうではなくて、天皇を名乗っていないとなります。
天皇は実在しているのに、正統の天皇ではないと、云えばおどろかれるが、江戸になり、天王の女鷹司家から、男天皇にとついで、もちきり状態で、伊勢神宮には立ち入らなかったのが、真実なのです。
それが何故明治になり、
明治天皇の神宮参拝を天皇として史上最初のことだというと、つじつまがあいません。
現代の天皇は何故か理由が飲み込めていなかったと、いうことです。
自分の家の氏神に一家・一族の主の地位にある天皇が明治二年まで全くその社前にぬかずいたことがないというのはおかしいのではないかという疑問である。
これが天武王朝体制の壊滅と同じ、
天武天皇は神道派で、それ以降の天皇は伊勢神宮へ参拝していないわけですから神道派ではないということは仏教派で、明治天皇は神道派の、逆で
天武天皇は仏教派で壬申の乱を起こした。
明治天皇は仏教派で江戸以来の天皇を排除し明治革命を引き起こした。

紀伊の国(和歌山)の熊野の村についた。その時、天日分に命令して「はるか天津の方に国がある。ただちにその国をたいらげよ」といわれて、将軍として標の剣を賜った。天日分は東に入ること数百里であった。その村に神があって名を伊勢津彦といった。その神が神武天皇に国を明渡すことを嫌がったので、天日分が殺そうとしたところ、神は恐れて「私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう」と誓い、東の方へ去っていった。

江戸時代も残りわずかな時、浅草の穢多頭、第十参代弾左衛門宅へ、薩摩藩の使者が秘密裏に訪れるのです。「島津家も弾家も、古は秦族ぞ。家紋も同じぞ。つまり、同族ぞ。」と、倒幕を誘うのです。
日の丸は、古来よりいろいろな形で使用されていましたが、日本の印にすることを江戸幕府に提案したのは、島津家です。これは前の正統一で、
久光母おゆら(大工の娘が斉彬を暗殺し、子久光に継がせた)これが後方二です。
歴史には前後があるから、前が大切なのです。

斉彬叔父黒田長溥が、娘を正統に嫁がせたから、長溥が日の丸は、古来よりいろいろな形で使用されていましたが、日本の印にすることを江戸幕府に提案したのは、黒田家です。
 

不比等の父が実は天智天皇

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時13分40秒
  藤原不比等(史)
ふじわらのふひと  (658〜720)
父は藤原(中臣)鎌足。
母は車持国子君女・与志古娘(よしこのいつらめ)
『大鏡』には
「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子なり。されど鎌足のおとどの二郎になりたまへり。」
などと書かれています。
不比等の兄、定恵は孝徳天皇の御落胤説
大化改新という、中大兄皇子(のちの天智天皇)と一緒に蘇我入鹿の首をはね
天智天皇の腹心として内臣となり、死の間際に大織冠(天智朝最高の位)と藤原の姓を賜りました。
鎌足が死んだのは669年、不比等12歳の時。
比等は二十歳頃に斉明・天智朝の右大臣蘇我連子女・娼子と結婚、武智麻呂(南家)・房前(北家、のちの藤原氏の主流)が生まれます。他に賀茂朝臣比売女(賀茂媛)などを妻妾に向かえ、賀茂媛との間に宮子(聖武天皇母)や母不明ですが長娥子(長屋王室)も生まれます。694年、三男の宇合(式家)が生まれます。
700年頃、不比等は天武・持統・文武朝に仕えて信任の厚かった県犬養三千代を妻にむかえます。三千代は美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)や佐為王(橘佐為)・牟漏女王と三人の子供がいました
より抜粋http://www005.upp.so-net.ne.jp/fudenoato/fuhito.htm
 

桓武王朝「日本」の誕生

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時12分34秒
  遣唐録事をつとめた山上憶良が「在大唐時憶本郷歌」と題して「いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ」(『万葉集』)と詠み、留学僧の弁正が「在唐憶本郷」と題して「日の辺りに日本をながめ、雲の裏に雲端を望む」(『懐風藻』)と吟じているhttp://www.japanology.cn/paper/wy/13.htm

桓武王朝の
『旧唐書』をひもとくと、粟田真人は「進徳冠(太子専用の冠)をかぶり、その頂に花をつくり、分かれて四散する。身に紫袍を服し、帛を以って腰帯と為す」と描かれ、その唐風衣冠に唐人はきっと目をみはったのであろう。それにくわえて、「大宝律令」の撰定者に名をつらねた粟田真人が満を持して、新生日本の情報を多くもたらした

七〇三年に則天武后が粟田真人らを麟徳殿に招き、司膳卿の官職を授けた時だったと考えられる。

認めていた則天武后
伝統にこだわる鴻臚寺は、「日本」の使用に戸惑い、粟田真人を「矜大(傲慢)」と酷評したけれど、自ら「聖神皇帝」と称し、国号を「周」と改め、洛陽を「神都」と名づけ、数々の「則天文字」を造った則天武后は、それをすんなりと受けいれたのではないか。
浙江工商大学日本文化研究所 王 勇参考
 

日本書紀に「天智(てんち)三年(664)

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時10分55秒
  筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/culture_rekisi_sitei_001
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/culture_rekisi_sitei大野城市
 

須恵器の大甕を調として納めた

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時09分40秒
  牛頸ハセムシ窯跡群出土の「和銅六年銘」甕片
「筑前国那珂郡手東里
大神郡百江
大神郡麻呂
内椋人麻呂
并三人奉調大■一■
和銅六年」
となります。これは、藤原京や平城京から出土する木簡などに記載される「地名・人名・調納物の名称・数量・年月日」が書かれているもので、すなわち和銅六年に筑前国那珂郡手東里に住む大神郡百江、大神郡麻呂、内椋人麻呂の三人が須恵器の大甕を調として納めたという意味になります。
http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/18.html#1
 

甕依姫(卑弥呼)「筑紫風土記」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時08分13秒
  卑弥呼は三世紀前半ないし中葉、神功皇后は四世紀前半ないし中葉の人物

甕依姫「筑紫風土記」これが卑弥呼である、甕とは倭人の葬り方にある。
四に云う、其の死にし者を葬らむ為に、此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作(つく)りき。茲(こ)れに因りて山の木尽さむとしき。因りて筑紫の国と曰いき。後に両(ふたつ)の国に分ちて、前と後と為す。これは木棺としている。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/himiko/himiko2.html古田武彦

古事記・日本書紀という近畿天皇家正史には
近畿天皇家中心の一元史観
「倭国」が「チクシ」を意味する
 

持統天皇四年庚寅、太神宮遷宮。東本宮地也

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時06分56秒
  豐受太神宮遷宮。東本宮地座也。 元明天皇和銅六年已酉、太神宮遷宮。
西宮地座。 同四年、豐受宮遷宮。西宮地座。 聖武天皇天平九年丁亥、九月、諸別宮遷宮事。
荒祭宮、在假殿造立舊跡、奉遷於東宮地也。
http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20050730

神道五部書http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/042/060.html

 持統天皇四年庚寅、太神宮遷宮。東本宮地也。
 元明天皇和銅六年已酉、太神宮遷宮。西宮地座。
 同四年、豐受宮遷宮。西宮地座。
http://d.hatena.ne.jp/kuonkizuna/20050730
奈良時代の和銅六
年(西暦713年)、時の政府の指令により編纂が始められたとされています。
 

元明天皇和銅六年(七一三)の地名

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時05分31秒
  「尾張」はもともと「尾張部」と表記されていたのが、和銅六年(七一三)に
郡・里名に好字(縁起の良い字)を付ける政策が出され、二文字で郡名・里名の表記がな
されるようになったため「尾張部」は「尾張」と記すようになりました。
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/asahi.htm
1300年前の書物和銅六年(七一三)
 

日本に朝廷は一つ

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時03分53秒
  九州王朝(旧唐書の倭国)が、大和朝廷(旧唐書の日本国)に移っただけ。
それは神武東征で、九州王朝は終わり、移動先奈良の開拓して奈良と地名がおこる。ならす
百済救援の為、朝鮮半島に出兵し、白村江に大敗したのは大和朝廷が九州にきていたからで、この時期王朝は奈良しかない。云わば大和朝廷の故郷が九州王朝(旧唐書の倭国)である。いにしの松峡筑紫城はいずれか、問う朝倉での(現比良松)斉名天皇。崩御
朝廷には神殿がなければ、九州都ではない。
 

和銅六年(713年)吉備国

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時02分35秒
  古代の吉備国は、大化の改新後に備前、備中、備後の三国に分割されたが、さらに奈良時代に入って和銅六年(713)に、備前国北部から英多(あいた)、勝田(かつまた)、苫田(とまた)、久米、大庭(おおむは)、真嶋(ましま)の六郡を割いて美作(みまさか)国として分国した。http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/mimasaka.html
持統天皇・(元明天皇の)勅(和銅六年)とされ、天武の功績は薄い。
国風歌舞 http://www.gagaku.net/Gagaku/kuniburi.html古来の歌舞(うたまい)です

ただ単に理由もなく、日本人の暮らしだけで道州制に変えようと自民公明がしているのは、先人を冒涜し、自己が偉いとしたいだけ。
その根源はは、日本のすべてを破壊することにある。
 

和銅六年(713年)太安万侶

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時01分21秒
  元明紀二 和銅三年正月より和銅五年十二月まで
和銅六年とする説もある。五十猛命と大屋毘古神の習合が生じたのであろう。1298年
前の出来事である。
風土記のうち、和銅六年の命に基き早い時期に撰進されたものを「和銅風土記」
http://www.remus.dti.ne.jp/~n-makoto/izushinto/izuhudoki01.html
「和銅風土記」。又、天平の頃になって撰進されたものを「天平風土記」
朝廷の出雲國造への特別な関係がにじむ和銅六年の風土記撰進の命
和銅六年(七一三)、朝廷の命により各国の地名とその由来、物産品目、土地の肥沃
状態、伝説などについて報告された官撰の地誌であった。『常陸国風土記』『出雲国
風土記』地名とその由来、物産品目、土地の肥沃状態、伝説などについて報告された官撰の地誌http://www.library.n-fukushi.ac.jp/kusaka/40-46.htm

《和銅六年(七一三)正月 ... 和銅六年(七一三)正月
丁亥(廿三)》○丁亥。授正四位上巨勢朝臣麻呂。正四位下石川朝臣宮麻呂並従三位。

『続日本紀』http://www.j-texts.com/jodai/shoku6.html
日本根子天津御代豊国成姫天皇〈 元明天皇第〓三 〉

711年和銅五年太安万侶(おおのやすまろ)撰『古事記』成る(倭建命と三重)。

日本書紀(720) 神代〜持統天皇 続日本紀(797)
文武天皇〜桓武天皇 日本後紀(840) 桓武
天皇〜淳和天皇 続日本後紀(869) 仁明天皇 文徳実録(879) 文徳天皇 三代実録(901)
 

神々のなりたち巻第四 地祇本紀

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 9月 6日(水)15時00分9秒
  この命は同じ朝の御世に神部値(かむべのあたい)大神部値(おおみわべのあたい)の姓を賜る。

先代旧事本紀の系図 稲葉の白兎の話と八上姫との婚姻
「日本(やまと)の国の青垣(あおがき=青々とした木で囲まれている)三諸山(みもろやま)に住みたい」
大倭(おおやまと)の国の城上郡に座される神
神の願いのままに青垣三諸山に斎奉る。宮を造り住んでいただいた。大三輪大神(おおみわのおおかみ)である。
その神の子は甘茂君(かものきみ)・大三輪君(おおみわのきみ)

大己貴神(おおなむちのかみ)[亦の名は大国主神(おおくにぬしのかみ)。亦の名は大物主神(おおものぬしのかみ)。亦の名は葦原醜雄命(あしはらしこおのみこと)
亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)八つの名前が有る
宗像の奥都島に居られる神の田心姫命を娶って一男一女を生む
味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)[倭の国の葛上郡高鴨社(たかがものやしろ)に居る
妹の下照姫命(したてるひめのみこと)[倭の国の葛上郡雲櫛社(くもくしのやしろ)に居
次に邊都宮に居られる高津姫神(たきつひめのかみ)を娶り一男一女を生む。
次に稲羽八上姫(いなばのやかみひめ)を娶り一児を生む
次に高志沼河姫(こしのぬなかわひめ)を娶り一男を生む
建御名方神(たけみなかたのかみ)[信濃の国の諏訪郡(すわのこおり)諏訪神社に居
都味歯八重事代主神(つみはやへことしろぬしのかみ)
 八尋熊鰐(やひろくまわに)に成って、三島の溝杭(みぞくい)の娘の活玉依姫の元に通い一男一女を生む
天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)
  この命は橿原の朝(みかど)の御世に勅を受け食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)と成って共に奉る。
妹の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
  この命は橿原の朝の御世に立てて皇后とし二人の子を生む
神渟名河耳天皇(かみぬなかわみみのすめらみこと)
  次に彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)である。
 次の妹の五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)
  この命は葛木高丘(かつらぎたかおか)の朝(みかど)が立てて皇后とし、一児を生む。磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)である
三世の孫の天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)[亦の名は阿田津久志尼命(アタツクシアマノミコト)]
 この命は日向の賀牟度美良姫(かむとみらひめ)を娶り一男一女を生む
健飯勝命(たけいいかつのみこと)
 妹の渟中底姫命(ぬなそこひめのみこと)
  この命は片塩の浮穴宮(うきあなのみや)で天下を治められた天皇(安寧天皇)が立てて皇后とし四児を生む
  大日本根子彦耜友天皇(おおやまとねこひこすきとものすめらみこと)
  次に常津彦命(とこつひこのみこと)
  次に磯城津彦命(しきつひこのみこと)
  次に手研彦奇友背命(たぎしひこくしともせのみこと)

四世の孫の健飯勝命(たけいいかつのみこと)
 この命は出雲臣(いずものおみ)の娘の沙麻奈姫(さまなひめ)を娶り一男を生む。

五世の孫の健甕尻命(たけみかじりのみこと)[亦の名は健甕槌命(たけみかづちのみこと)。亦の名は健甕之尾命(たけみかのおのみこと)。]
 この命は伊勢の幡主(はたぬし)の娘の賀具呂姫(かぐろひめ)を娶り一男を生む。

六世の孫の豊御気主命(とよみけぬしのみこと)[亦の名は健甕依命(たけみかよりのみこと)]
 この命は紀伊の名草姫(なぐさひめ)を娶り一男を生む。

七世の孫の大御気主命(おおみけぬしのみこと)
 この命は大倭(おおやまと)の国の民磯姫(たみいそひめ)を娶り二男を生む。

八世の孫の阿田賀田須命(あたかたすのみこと)
 和邇君(わにのきみ)等の先祖

 次に健飯賀田須命(たけいいかたすのみこと)
  この命は鴨部(かもべ)の美良姫(みらひめ)を娶り一男を生む。

九世の孫の太田田禰古命(おおたたねこのみこと)[亦の名は大直禰古命(おおたたねこのみこと)
 この命は出雲の神門臣(かむとのおみ)の娘の美気姫(みけひめ)を娶り一男を生む。
十世の孫の大御気持命(おおみけもちのみこと)
 この命は出雲の鞍山祗姫(くらやまつみひめ)を娶り三男を生む。

十一世の孫の大鴨積命(おおかもつみのみこと)
 この命は磯城瑞籬(しきのみずがき)の朝(崇神天皇)の御世に賀茂君(かものきみ)の姓を賜る。

 次に大友主命(おおともぬしのみこと)
 この命は同じ朝の御世に大神君(おおみわのきみ)の姓を賜る。

 次に田田彦命(たたひこのみこと)
  この命は同じ朝の御世に神部値(かむべのあたい)大神部値(おおみわべのあたい)の姓を賜る。 先代旧事本紀031

十世の孫の大御気持命(おおみけもちのみこと)の子
十一世の孫の大鴨積命(おおかもつみのみこと)の弟田田彦命(たたひこのみこと)
  この命は同じ朝の御世に神部値(かむべのあたい)大神部値(おおみわべのあたい)の姓を賜る。

大神君祖の大友主命、神部直・大神部祖の田々彦命がそれぞれ出ています。 なお、この
部分の系図は『日本書紀』では大物主命→大田田根子と素っ気ありません。 『古事記』
では大物主→櫛御方命→飯肩巣見命→建甕槌命→意富多多泥古となっています。
 

邪馬台国の謎は中国民族の歴史にある

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月28日(月)11時30分52秒
  日本国の前進は二大民族・中国王朝時代の春秋時代から戦国時代に馳せた呉越民族が国形成の基盤となった。
ここで呉越民族とはどのような、民族なのか?知らない人がいるようだ。
常に歴史を紐解く上でなくては、つじつまが、合わなくなる。
始めに王とは何時頃始まったかといえば、世界で最初に文明を開いた、イラク、チクリス河沿いに起こったメソポタミアの王シュメール王である。
世界で最初に文明が開かれたのが、王による農耕天文学による、開化である。シュメール王が世界最初に開花した文明の創設者であった。
ここに発端した王は、周りに波及しだし、各地の首領は国を上げて純正とは異なり王となのったが、これらは純正の王とはならない。
純正とは最初からという語源が付くものをいう。

各地の首領は純正とは雲泥の差です。
純正とは違った各国の首領王。
そもそも純正真実とは何ぞやという疑問の答えにならない。

各国に作られた王はまたたくまに、世界に広まっていた。
ここから王の国の歴史がはじまり、メソポタミアを中心に複製王が誕生していった。紀元前5000年前の出来事である。紀元前2500年前頃メソポタミアのシュメール王は代を重ねて遂にセム人により、侵入され都を後に移動している、移動先にはつじつまの合う、農耕天文学も王も同時に、移動していた。

逝く着く先は雲南が農耕には適した土地であったのであろう、この地を開拓して、治水を行い、前地メソポタミアの技術をここに伝えた。ここがスメル人の居住地となっていた。
同じ頃、インドの平原ラッサムに居住していた、ドラピタ民族(ケルト)もアーリア人から国を奪われて、中国の山岳地帯に移動している。
ドラピタ民族は竪穴式住居と環濠集落が、特徴で、これはシュメール法則から、取り入れた複製の、天地の地が民族には適していたようで、シュメール人以外の世界中皆狩猟民族で白人も、その中に含まれている。
狩猟民族の生活は自家用と副産物をシュメール民の道具で加工して、メソポタミア都(九)と交易していた。
ドラピタ民族はシュメール民の都にも現われるようになり、豊かな国の特産物と交換していた。ドラピタ民族は後にヤンシャオ民族に変わっていた。
ヤンシャオ民族の生活は変わらず原始狩猟民族のままで、狩猟民族の特徴である武器が主な主力であった。
ここに中国に二つの民族が、互いに交換して、暮らしていたが、ヤンシャオ民族の生活には信仰と共に、唯一の文化から、産物の動物が減少して、暮らしが行き詰って、遂には夏王朝の豊かさに、武器でもって侵略し、ヤンシャオ民族から、殷の国と改めている。夏王朝はその後どうなったかと、云えば
会稽の都から、離れて南方へ移動していたようである。
ここに夏王朝スメルとヤンシャオ民族複製殷王とが、対抗していた。
春秋時代の幕を開いたのは、夏王朝の書記役で使えていた複製周国の王は殷
を滅ぼして、殷国を分けて、兄は王を継がず弟が王を継承している。
ここに殷の民族は世界各地に居住地を求めて渡海していった。
ここにわが国原始時代が、殷の民族によって先住民となっていた。
我々は縄文時代とこれを呼んでいる。
ここに中国の歴史があり、中国の古代も二大民族の流れであった。
わが国原始時代は殷の民族によって開かれたのは誰にも知られていない。
殷の民族と縄文人の生活はほとんど、変わらず同じであった、私たちは日本の歴史を語るとき、縄文人としているが、本来真実は殷の民族となる。
1000年後に、北部九州に渡来した除副の一団は、越王に仕えていた書記役の司馬殷の民族で、秦の始皇帝の時、支配を嫌い渡海し北部九州を開いた。
ここにわが国の歴史の倭の基盤がはじまった。
 

牛頭のある女王のリラ

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月25日(金)09時58分12秒
  ウル王墓のプ・アビ女王の墓から出土したリラ(小堅琴

http://www.hankyu-hotel.com/cgi-bin/webmainte/hhi/display_backno.cgi?NO=07&C AT=concierge
プアビ女王墓からラピスラズリのネックレスが出土しました。
http://www.geocities.jp/barclay705/crete/
メソポタミアでは、紀元前2500年頃、チグリ ス・ユーフラテス河のデルタ地帯に存在したシュメール人の古代都市国家ウル
http://www.cromagnon.net/whatsnew/topics/stn_lapis.htm
メソポタミアでは、正にプアビ女王の時代である。 考古学が金の起源
リラは墓抗の壁に立てかけられていて、宝石類や10人の女性の遺体も見つかり、殉死者と考えられたが、ひとりの女性はリラのすぐそばに横たわり、指は弦にかけられていたという。
http://blog.drecom.jp/vanillabeans/monthly/200403/
牛頭の装飾には金が使われて
いる。ラピスラズリや貝などもふんだんに使用
プアビ女王墓からはラピスラズリのネックレス、ラピスラズリと
カーネリアンのビーズが付いた黄金の頭飾りなど発見され手います。
 

天海と「三宅輪宝」系譜

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月20日(日)17時26分20秒
  天海と「三宅輪宝」系譜  投稿者:児島宮歴研会  投稿日: 8月20日(日)17時24分18秒
   最初遠山景玄(かげはる)と名乗り、次に母方を継いで三宅弥平次と改め、さらに光秀
の娘婿となって名乗った明智秀満である。 ... 天海が遠山景玄/三宅弥平次/明智秀満で
あったことは、その取り巻く人物からも頷ける。
従兄弟となる斎藤利三の娘お福
北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。
朝廷より慈眼大師号を追贈された

「三宅輪宝」家紋
「三宅輪宝」は、文字通り三宅氏の家紋である。
天海の出自をうかがううえで重要なものは、その用いた2つの家紋、「丸に二引き両」と「三宅輪宝」である。
最初遠山景玄(かげはる)と名乗り、次に母方を継いで三宅弥平次と改め、さらに光秀の娘婿となって名乗った明智秀満である。
従兄弟となる斎藤利三の娘お福(春日局)との関係はよく知られているとおりである。
春日局と同僚官僚で同じく天海を師と仰いだ英勝院もその江戸城代の遠山氏の出であり、天海が天正18年に川越北院に入ったときの川越城主大道寺政繁の妻も同じく遠山氏である。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C5%B7%B3%A4/detail.html?LINK=1&kind=epedia&kind=epedia&LINK=1

[天海と「三宅輪宝」母方佐々木三宅高貞娘]

遠山景玄は、母方を継いで三宅弥平次

光秀の次女を娶って明智秀満を名乗った。正室の慈正院は、三河足助城主の鈴木滋直の娘で、その母は松平清康の妹で家康の育ての
母松平久子。子に方景、阿茶局(須和)に使えた龍光院

光秀の娘婿
天海 「南光坊天海, 慈眼大師」
旗本遠山氏(明知遠山)の初代。父は第12代明知城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

景行の妻は三河広瀬城主三宅高貞の娘

『児島宮系図』
[範長の長女の子頼宴室子高徳]
三宅郷守─重範─児島範守(弟児島範勝、弟今木範光、弟範常)─範長─高徳(範長の長女の子)─高秀(弟三宅高光、弟三宅高貞)─高家─信徳─宇喜田久家(母児島高家女←藤原三条実家を婿とす)─能家(和泉守)─興家(弟義家、弟定安

三宅高貞─良覚、弟元貞─貞次─貞宜─清宣、弟貞次、弟清貞(周防守)─師行─行貞─正貞─〔三河拳母一万石〕康貞(弟広勝、弟勝清)─康信─康盛─康勝〔田原三宅家〕。

三河国広瀬城主佐久間全孝が遣わした岩松弥八に暗殺されたともいわれ、あるいは、病没 竹千代は、八歳(六歳四ヶ月)家康
当時の三河は、北の尾張織田氏と南の駿河・遠江・三河を領していた今川氏の狭間にあって、小領主たちはいずれかに庇護を求めなければ、生き延びていくことがてきない状況にありました。
遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。景行は、第12代明知城主(恵那市明智町)。
岡崎城主松平広忠、
西加茂郡広瀬城主佐久間全孝の謀略により岡崎城で家臣岩松八弥に 刺される。
岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C5%B7%B3%A4/detail.html

205.Re: 天海と「三宅輪宝」(児島高徳後裔)連系佐久間信栄
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:8月19日(土) 19時19分
輪宝
(児島高徳後裔)
三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。伝えには「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。明応二年(1493)六月に完成した猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_miyake.html

[天海と「三宅輪宝」広瀬城児島高徳が築城]
旧西中金腺・広瀬駅の東方にそびえる標高108mの山頂に広瀬城はあります。
東西300m、南北150mのこの城は、1344年この地の豪族、児島高徳が築城、その後戦国時代には三宅高清の居城となったが、三宅氏は織田信長についた為、1560年松平元康(家康)は織田方の広瀬、梅坪、挙母の諸城を攻め、広瀬城は落城したそうです。
三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。伝えには「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」
明応二年(1493)六月に完成した猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。


【徳川家康事典】
天文十一年(1542)十二月二十六日、家康は、その三河国岡崎城主松平広忠と緒川城主水野忠政の娘於大の嫡子として生まれ、竹千代
今川氏に属していた松平広忠は、織田氏と結んだ水野家と絶縁するため、於大と離別し水野家に帰します。
(松平広忠は、後の天文十四年、田原城主戸田康光の娘と再婚します)
三河国広瀬城主佐久間全孝が遣わした岩松弥八に暗殺されたともいわれ、あるいは、病没

岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う
http://www.hm2.aitai.ne.jp/~yama2000/page14.htm

[三河 広瀬城主佐久間九郎左衛門]
1533年佐久間全孝が入る。1549年全孝は
岡崎に刺客岩松八弥(片目の八弥)を送り込み、松平宗家8代広忠は殺害される。1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)の子長七郎居城の時、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。

岩松は加茂郡広瀬城主佐久間九郎左衛門に命ぜられてのもだとも言う(岡崎古記)。
天文十八年(1549)三河・松平広忠、佐久間九郎左衛門に謀殺された
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Nishi-Hirosejyou.html

[天海と「三宅輪宝」広瀬城宮家(みやけ)]
岩松八弥は織田方の武将・佐久間全孝の意を受けた刺客であったという。広忠が織田方の将の佐久間全孝の刺客である近侍の岩松八弥に 暗殺された。佐久間九郎左衛門広瀬城主


宮家(みやけ)とは、日本の天皇家で代々皇族の身分の保持を許された一家

鎌倉時代以降、親王宣下の制度により、本来その資格のない2世王以下の皇族が天皇・上皇の養子・猶子となって親王の称号を世襲する例が散見されるようになり、これを後世「世襲親王家」と呼んでいる。

日本一宮家
五流尊龍院宮家
紀州熊野権現の新体をこの地に奉斉したのが児島五流(尊龍院、太法院、建徳院、報徳院、伝報院)、児島修験の起源
承久の乱がおこり、兄頼仁親王が尊龍院に流されて、この地で死去します子孫は代々宮家姓を名乗ったそうです
現在は、そのうち尊龍院だけが頼仁親王の血脈を受け継いでいると云います。
後鳥羽天皇―頼仁親王――道乗大僧正―――頼宴大僧正―――高徳
頼宴大僧正の三男高徳は外祖父三宅範長の嗣となりました
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/gsi.htm

[三宅右衛門太夫貞保高貞]
1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)の子長七郎居城の時、
御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。1560年「桶狭間の戦い」の際、佐久間信直は
信長方の善照寺砦を死守し、戦功を挙げている。1576年頃、佐久間信盛も居城したが、その後、信直、甥の正勝は織田信雄に属し、1584年「小牧、長久手の戦い」で蟹江城を護り、軍功を挙げた。

松平広忠(まつだいら・ひろただ) 1526〜1549
松平広忠の父松平清康、母は青木貞景の娘
広忠妻天文10年(1541)、水野忠政の娘・於大後妹尾再婚
徳川家康の父広忠
天文18年(1549)3月6日、近臣・岩松八弥の凶刃に襲われ、岡崎で斃れた。24歳。

佐久間信直兄広瀬城主佐久間九郎左衛門(全孝)
二男佐久間信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間右衛門尉信盛
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Nishi-Hirosejyou.html
 

天海と織田信長始末記

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月20日(日)17時18分38秒
  [天海と「三宅輪宝」三宅一族の氏神]
近江宇多源氏の末裔三宅一族の氏神の守護神。天皇神社
参道の鳥居には十六菊の入つた紋天皇神社の神額があり、皇室とのつながりの厚かつたことを示してゐる。丹波の神社‐亀岡市の神社

明智弥平次秀満(左馬之助光春)は、三宅氏の出であり、光秀の二女(伊丹城主荒木村 重の嫡男村安に嫁いだが、村重が信長にそむいたため離別され秀満に再嫁した)を娶って 姻戚関係となった。
 「白練に雲を狩野永徳に画かせたる羽織を着、二の谷という冑を着、大鹿毛と名付けた る馬にのり」(「名将言行録」)湖水を渡ったとされ、そのときの馬の鞍といわれるものが坂 本の西教寺に残されている。http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/mmdb/mitsuhide/af6.html

http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/mmdb/mitsuhide/aketi_link/akef6_1.html

(本能寺の変に従軍していた光秀配下の武士 本城惣右衛門が
晩年、子孫と思われる三人の人物に宛てた記録より:奈良天理図書館蔵)本能寺の変
フロイスは信長の最期の様子について
「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真っ先に警備に当たっていた守衛を殺した。信長が手と顔を洗いおわって、手拭で拭いている背へ矢を放った。信長は、この矢を抜いて薙刀とよぶ柄の長い鎌のような形の武器を持ってしばらく戦ったが、腕に弾創を受け、自らの部屋に入り、戸を閉じた。としている。

光秀の先鋒として本能寺を襲撃した明智秀満家臣の並河金衛門が信長の首を得て秀満の元へ届けたとき「主君(光秀)が逆上して、不敬なことを働いてはならない。」と言って、秀満が隠してしまったという講談話などがある。

阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』(享保16年)によれば
「変勃発を知った京都阿弥陀寺(京都市上京区)の住職(清玉上人)が、僧徒二十人ばかりを召し連れて本能寺に駆けつけると

本能寺の墓地の後ろにある藪の中で織田方の数人の武士が信長の遺体を 焼いていたので頼み込んでその骨をもらいうけ
(本能寺の僧のような顔をして)本能寺を脱出、阿弥陀寺に持ち帰った。」また、旧本能寺跡のそばには信長首洗いの井が残されていて
その水で住職が信長の遺体 (おそらく持ち帰ったのは首のみ) を洗ったと言い伝えられている。http://www16.plala.or.jp/amber-devil/mitsuhide081.htm
変後約一ヶ月たった7月11日、山科言経はこの阿弥陀寺に詣でて信長以下
本能寺の犠牲者を弔っていることが記録に残っている。
http://tanbarakuichi.hp.infoseek.co.jp/shrine/kameoka/4.html

[天海と「三宅輪宝」信長始末記]
門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。
本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。
寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。
捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。
旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。
一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm
 

天海と「三宅輪宝」(児島高徳後裔)高徳の血統

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月20日(日)16時11分7秒
  児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成ー甚九郎岩蔵ー甚九郎弥蔵ー甚九郎弥平ー甚九郎喜平ー甚九郎文八ー甚九郎某ー

三宅弥平次に嫁いだ(弥平次は明智に改姓)
1582(天正10)年。旧姓 三宅。光春、弥平次。明智光秀の女婿。
秀満の妻は最初荒木村重の子村安に嫁いでいたが、村重の謀反を機に離縁されていた。結婚後、1580(天正8)年から1581(天正9)年の間に明智と改姓。秀満あけち・ひでみつ

明智弥平次(左馬助)秀満 元は三宅弥平次と申し、備前児島の常山の生まれ三宅弥平次は明智光秀の娘婿で「秀満」本能寺・妙覚寺襲撃
明智左馬助秀満は備前三宅氏、児島高徳の血統という名門の出。
旧姓 三宅。光春、弥平次。
明智弥平次秀満(左馬之助光春)は、三宅氏の出
光秀の二女(伊丹城主荒木村重の嫡男村安に嫁いだが、村重が信長にそむいたため離別され秀満に再嫁した)
この為佐久間信栄は子息秋月長興に命じ荒木村重女二人を家臣田代に嫁がせたとある。荒木又兵衛姉二人


明智家中で斉藤利三と並ぶ筆頭家老
織田信長への謀反も前もって打ち明けられていた。
斎藤内蔵介(利三)が南、三宅弥平次(明智秀満)と斎藤利三の子が北から本能寺の突入したとみられる
「本城惣右衛門覚書」http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm

もんハひらいて、ねずミほどなる物なく候つる、そのくびもち候て、内へ入り候、さだめて弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入り、くびハうちすてと申し候まゝ、だうの下へなげ入れ、をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候、かやばかりつり候て、人なく候る、
くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、我等女一人とらへ申し候へバ、さむらいハ一人もなく候、
うへさましろききたる物めし候ハん由、申し候へ共、のぶながさまとハ存ぜず候、その女、さいとう蔵介殿へわたし申し候、
御ほうこうの衆ハ、はかま・かたぎぬにて、もゝだちとり、二三人だうのうちへ入り申し候、そこにてくび又一ツとり申し候、その物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし申さず、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申し候、その折ふしハ、もはや人かず入り申し候、それヲミ、くずれ申し候、我等ハかやつり申し候かげへはいり候へバ、かの物いで、すぎ候まゝ、うしろよりきり申し候、その時、共ニくび以上二ツとり申し候、ほうびとして、やりくれ申され候、のゝ口ざい太郎坊ニい申し候



喜多村家傳   明智家譜 及び 明智系圖
智頼重民部少輔幼名彦九郎是明智之元祖也
領地土岐郡之内明智郷以所為家号也 于茲頼重十一代之正統明智光秀十兵衛尉後号惟任日向守于時享禄元歳戌子三月十日於于濃州多羅城誕生母武田信虎女也信玄姉也
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm

[天海と「三宅輪宝」信長始末記]
門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。
本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。
寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。
捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。
旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。
一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm

[天海と「三宅輪宝」は名門]
光秀の女婿(妻は細川ガラシャの姉)で元は三宅弥平次といい、『明智軍記』では左馬助光春の名で見える。

正しくは明智弥平次秀満もとは三宅弥平次三宅出雲の子
明智光秀に仕えてその女を娶り、姓を明智と改め、秀満と名乗った。
のちに左馬助と号す。他に、光春
天海が光秀だとすると百歳以上生きたことになるので、児島さんの弥平
次=天海のほうが信憑性

福知山城 福知山城(別名・竜ヶ城、横山城)
福知山城は、福知山盆地の中央へ西南から突出した一続きの細長い台地の末端にあり
光秀はここに城代として、藤木権兵衛と三宅弥平次を置き、城も近代城郭へと改築させた。 その後、秀吉の天下となり秀勝、杉原七郎左衛門家次、小野木重勝が城主となった。
http://www.biwa.ne.jp/~marunaka/fukutiyama.htm

[天海と福知山城(別名・竜ヶ城、横山城)]
横山城は、小笠原長清の後裔、小笠原頼勝によって初めて築かれた。
天正7年(1579)8月、当城には頼氏の子信房がいたが、信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略によって落城の運命を辿る。明智光秀は、城の地の利を見て、丹波路の拠点とすべく、城代の藤井権兵衛、三宅弥平次らに命じて、大改修をなした。
北政所の叔父にあたる杉原七郎左衛門家次が三万石をもって城代となる。
天海が遠山景玄/三宅弥平次/明智秀満/明智左馬ノ介であったことは、その取り巻く人物からも頷ける。
従兄弟となる斎藤利三の娘お福(春日局)との関係


南光坊天海 「天海, 慈眼大師」
大僧正。徳川家康のブレーンとして江戸幕府の設立に活躍した政僧。南光坊天海。「黒衣の宰相」。
芦名氏の一族である三浦氏の出目で、陸奥国に生まれたとされる。その根拠は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一ぞく」と記されている。
、「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
浅草寺の史料によれば、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。
天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。
関が原の戦いでは、参謀として家康に近侍したという。その後、天海は家康の参謀として、朝廷との交渉等の役割を担う。
1607年に比叡山探題に就任し、延暦寺を再興する。
元和2年(1616)、危篤となった家康は、神号や葬儀に関する遺言を天海らに託す。
寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。
陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。
http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kinki/fukuchi.html
 

【人造邪馬台国と自由主義の観点は絶対主義に服す】

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月19日(土)14時56分15秒
  この世はすべて自然が塗り替えられている。
その中にある私たち。
自然とは貴重な存在、これがある者によって突然塗り替えられていた
こんにち、成すべきままか、成さざるべきか?はまだ,よいほう方。
中々治らないのが頭脳というやつ、いちど欠陥がでると、自然まで
回復するには、中々のもの。そんな中起こった人造邪馬台国。
「人間らしさ」と「生きる力」の基礎自然と再生にある。
高度経済成長が急速に進むころから、もの中心の考え方げ優先し、心
が忘れ去られる。これが人造社会の始まりとなる。人間らしさとは
自然との共存しかない。
貴方は大丈夫ですか?
ヒトは一般
に野人とも呼ばれ、人間の範疇の外にあると考えられる。
便利になって
来るが、それにつれて人間らしさがなくなって行く」 という。世の中
は、だんだん科学や技術が発達して、便利になって来る。
「人間らしさ」とは自然感での状態が保たれている事。現代はあまりす
くなくなったようだ、何の為にか考えていない。
「赤ちゃん」として生まれて最初に自らの意志で「人間らしさの回転」
を実行するのが「這い這い」である。
人づくりから生み出されるものには人造歴史はありえない。
人間らしさが欠けたものが、災いをもたらす。
「人間らしさ」とは何だろう
それは自然の循環が正しく行われている、有様でしょう。
みだりに、嘘をつきまくると行き詰るが、正しければ゛再生する。
自然の原理をおろそかにすると、行き詰るのは云うまでもない。
人造はロボットですから、人間の為ではなく、金の為にしか過ぎない。
ゆえに、人間破滅を招くから、便利に頼ると、人間には反作用する。
人造歴史・人造邪馬台国では駄目なのである。
現代にも通用する便利に頼ると、人間には反作用する。
歴史には古代人から伝わる綿々としたものが、明治初年頃から人造づくり
が始まり、人造歴史となって学問が白熱し、こんにちに、至っている。
人造日本のはじまりでもあった。
http://sugar.lin.go.jp/silk/info/tisiki/0406ti.htm
生まれ出た自然「もの」を挟んで、行と自然の精神的立ち位置が逆転する。
『天然』の素晴らしさ神の国への入り口
「為政者と善民の足跡を追う」明治期からは化学合成された人造
すあえて人造歴史・人造邪馬台国には拘わらないほうが、より自然になる。
人間なんて物は、そんなものなのだ。
おお哀れなる者達を救い賜えとまおす、事を聞こし召せとかしこみ、かし
こみ、まおす。
自然はいだいなり、この自然を改造し人造化するもの、こと哀れなり。
すべてが狂った明治人造社会と天皇の改造。から現代に至る。
歴史には古代人から伝わる綿々としたものが、明治初年頃から人造づくり
が始まり、人造歴史となって学問が白熱し、こんにちに、至っている。
人造日本のはじまりでもあった。
http://sugar.lin.go.jp/silk/info/tisiki/0406ti.htm
生まれ出た自然「もの」を挟んで、行と自然の精神的立ち位置が逆転する。
『天然』の素晴らしさ神の国への入り口
「為政者と善民の足跡を追う」明治期からは化学合成された人造
すべてが狂った明治人造社会と天皇の改造。から現代に至る。
【人造邪馬台国と自由主義の観点は絶対主義に服す】
人造の現代社会にのめりこんでいる、世界は今自然の人間らしさが欠乏した
人類であろう。人造には欠乏か欠陥が含まれている。
機会に欠陥が出るととうなるか?邪馬台国にも付き物のこの、欠陥。
早く直せば治るものを、この欠陥はどうにもならない。
今世界はこの上にある、そして流れていくのだが、これが普通だと感じてい
るのは、一時だけだろう、何故なら人造社会だから。

[ここでは、新発見の人造について語ろう]
今日本人は完全なる人造人間であることは確かであろう。
それもそのはず、古来の自然感を変えたあの時からである。
古来の自然感には人間らしさが整っていたが、悪人がこしらえた、社会は完全
なる欠乏人間に改造されていた。人格改造にされたのであった。
これが新登場明治天皇が発せられたのであるから、逆らえなかったのは、いう
までもない。何故そんな具合になってしまったのかは、自然感が遠くなってか
らは、手遅れ状態になる。
至り今日まで延々と続いているのが、人格改造された現代の根源なのだ。
人造人間には改造がつきもの、行きどまると、又民営化する。おやおや。
眉唾ものであるのに、人造人間らには、到底解らないだろう。
人造人間が住んでいる世界は、自然感は無い、あるのは
荒れた荒野そのもの。
如何に自然感が人間に大切なのか、神と離れた人造人間悪魔達には到底無理が
ある。
この世がすべて人造が正しいと信じている現代日本。
 

吾妻鏡 あずまかがみ

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 8月11日(金)09時00分51秒
  吾妻鏡

13世紀前半に公家の手によって書かれたものと推定される史書『水鏡』が,前代の『大鏡』の形式をまねながら,昔も今もあさましいことのみが多かったと,うしろ向きのものであった。前半部とくに鎌倉幕府の草創期において北条氏のためにする曲筆,政治的事件の隠蔽が見受けられる。
これらの諸本は元来ひとまとまりの完本ではなく,それぞれが多くの抄録と集成を重ねた本の組み合せである。武家の“道理”による歴史

北条氏一族との関連を説く見解もある。本書は鎌倉時代の前半80年余をおおう長大な史料

農民のあいだでは,収穫の吉凶を占ったり,豊年を感謝したりするときに相撲が行われた。武士のあいだでは,体力の鍛錬のために相撲が大いに奨励された。
 

杜仲茶のルーツは桓武天皇

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月31日(月)19時31分38秒
  昔、ある人が木の皮を砕き煎じたものを毎日のように飲んでいました。
すると心身ともに活力がみなぎってきて、やがて仙道を悟るようになりました。 仙人となってからは霞を食べ、その秘薬を口にしては美女をはべらせ、空を自由に飛んで、生き長らえたと言うことです。 その仙人は名前を杜仲と言いました。これは神農さんにも見えています。『神農本草経』とは、神農の世(紀元前3000年代)から伝わる薬学の辞典で編集されたのは後漢(西暦100年代)の時代からですから、1800年以上も前の辞典ということになります。丁度弥生中期あたりになります。
神農とは、中国古代伝説上の三天子(伏義、神農、黄帝)のひとりで、人身牛首の姿をし、人々に農耕を教え、百草をなめて医薬として使えるか否か、を決めたと言われています。
杜仲がわが国に渡来したのは、奈良時代以後、平安時代にかけてと考えられています
それは桓武天皇による、示しものとして持ち込まれたものと、見られます。
児島宮のご祭神は人々の為に、何かを伝えていたのでしょう、それは仙人天子だからこそ、出来得た贈り物でしょう。
守られていたからこそと、考える人は現代には、いないし、中国だけの伝説として見られては、何か根源がない、言葉になり、根源これには大切に受継がれてきたからこそ、現実でも
人間に、影響を及ぼしているのかも知れません。
それは現代の家族制度の崩壊や日本の歴史の崩壊を見るに、先が見えないものとなり、これから先どうしたらいいのか、判断が出来なくなる。現実には民営化のように、まだ先のことさえ、経験していないので、検討が付かないのと同じになります。
これを種といいます。
 

朝倉筑前町の児島宮の先人神農神

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月31日(月)19時05分16秒
  杜仲茶のルーツは
西南部原産地の樹高20メートルにも達するトチュウ科の落葉高木トチュウの葉です。中国では杜仲を数千年前から不老長寿の生薬として珍重してきました。
古来より伝説神話の基の州に属する宝物です。三神のうちの一人。
『神農本草経』とは、神農の世(紀元前300年代)から伝わる薬学の辞典で編集されたのは後漢(西暦100年代)の時代神農とは、中国古代伝説上の三天子(伏義、神農、黄帝)のひとり人々に農耕を教え、百草をなめて医薬として使えるか否か、を決めたと言われています。
本草とは、不老長寿の学問
漢方薬材料の草木のほとんどが、神農の時代に見つけられた
伝説の仙人は名前を杜仲と言いました。
杜仲茶がわが国に渡来したのは、奈良時代以後、平安時代王朝貴族に用いられていた。 杜仲の葉は苗を植えて2年程で採取されていて、王と切り離されてしまうと、解釈の違いで
樹皮が漢方では杜仲の樹皮しか使用しません。と解釈しているのは、それが原因でしょう。狩野派の描く神農にも、樹皮ではなくて、口にしているのは葉だからです。
杜仲茶のルーツは西南部原産地の樹高20メートルにも達するトチュウ科の落葉高木トチュウ中国では杜仲を数千年前から不老長寿の生薬として珍重してきました。
杜仲(樹皮)の生薬としての歴史は古い。

神農氏は赤色の鞭で草木を打ち、百草を嘗めて毒か薬か、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを調べ上げた。
神農氏の子孫として州・姜姓としている
神農はまた、人々に農耕と. 交易を教え、医学を創始した
http://www10.ocn.ne.jp/~seihou/shop/008-jinnou/index1.html

紀元前2700年の中国では神農と呼ばれる王様がいました。

児島宮の中国での先祖につながるこの元祖神農は神様でした、これはシュメール王の鵜王の時に現われた神様で、移動してきた時に、同時に伝えたのです。
児島宮の神々は世界にいろんなものを、与えその価値の影響を及ぼしていたのです。
ですから、こんにちも、言い伝えだけではない事を示しています。
8000年の時を得たこんにちにも、誰にも解けない秘法で、人間が助かっています。伝説として、捉えられていたものでも、現実にも、この教えは尊いものとなっています。
人間は尊いものには見向きもせず、感謝さえ失ってしまったので、何かで知らせているものと、みています。
 

人間が持たなければならないものは尊さ

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月30日(日)12時28分59秒
  人間がもっとも大切なものとは尊さである。
尊さとは右にでもないし左でもない、心得中真である。現在の日本は之に対し反対のほうへ向かっている。それは民営化の化物だ、是革命にも似たり、人の自由を統一し、思想を一元化してしまう。簡単な言葉だと、洗脳するになる。言葉には嘘はすぐに表われる。
民営化が進む中日本民族はどうなるのかさえ、わかる政治家は一人も居ないし、学者は一元化されたのを伝えることしか、出来ない。これは洗脳という言葉に化かされてきた日本の歴史では、邪馬台国のような形さえ見えない空想の言葉に執着していたせい。
戻らなければいけない国の民族日本人、一歩進んで二歩下がるの如し。人生は。
現にソビエトでは共産国だったので、左に寄りすぎていて、右も否定してきた。又アメリカは反対に右へと進んでいたので、日本は戦争敗戦により、憲法が植え付けられて、それは丁度ソビエトみたいな思想になされ、右に寄れば右左に寄れば左と、唯一思想になされた、から尊い事が見えなかったのは学者と同じである。科学にも似た言葉は思想にも、根源がないような、もやけた中に、何かを求めたのが唯一自由思想だった。アメリカ側に向いた右翼が明治から現代の日本を破滅へ導かせた原因根源である。
これらは人間がもっとも大切なものとは尊さがなかつた人達である。
一睡の中にも中心がある。それが道尊さである。
まだ判らない人は西湖や福岡県大濠公園の画像をよく観察すること。分け入ることが人間の正しい尊さである。自分だけになると何も根源のない欲しかない。統一とは一つにまとめて
しまうので、尊いことも見えなくなる。
信仰も同じで、正しいと思ってもほんとの正しさではない。
統一から分け与える民族が、次へ受け渡すことの根源にもなる。児島宮関連の歴史人物はこうした、約束を守り日本の文化を豊かにしてきた。それは人間がもっとも大切なものとは尊さの根源が、ここに集結しているからである。
あまり知られていないのも、嘘偽りに翻弄していた為に、正しい道が見えない日本にあったから。
橋渡しにはシンボルが刻まれているが、これは世界で此処にしかない標根源を表わす。三角
 

秦の始皇帝と天の三角州

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月30日(日)11時30分45秒
  中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を縮景したもので、異国情緒を日本庭園の中に取り入れています。秦の始皇帝はこの方法を解釈して島に結びけた。天文学三角州の中に尊い姿がある。http://www.tokugawaen.city.nagoya.jp/02_walking/detail/04seikotei.html
西湖の構築にも日本の庭園思想があり、王によって受継がれてきたが、解釈できる者が居ない時代は、天文学歴史が偽られて贋物になっていたからである。
現代人が歩んでいる道は、これとは逆さかな、道を突き進んでいて、これが解釈できないから、日本民族は消滅させられる。
福岡県大濠公園http://www.bb-vec.com/j/40.fukuoka/kouen/2.html
 

三州に秘められた謎州とは

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月30日(日)11時17分48秒
  富士見十三州とは富士山に見立てた山のことで、この言葉の言語三州とは神々を表わす根源となっている。
言葉の三州が神々と関連しないと、化けることで、根源のない事になる、それは日本の歴史中にもある。人間でなくなると、どんな悪態なことでも、自分以外は受け付けない、偽者化物絶対悪魔習性にある。
三州, さんしう, 三河国. 参州, さんしう, 三河国. 山州, さんしう, 山城国. 讃州,(備州びしう備前国、備中国、備後国)等さんしう, 讃岐国(筑州ちくしう筑紫国)ことなる国がおなじ州名をもつことがあります。
http://www.geocities.jp/wuyongdeye/tables/japanese-states.html
これを壊した小泉自民党の狙いは日本民族に対する裏切りでしかない。地名変更にはそれがある。地名を変えるという事にも民営化や革命思想と同じ、神に化けて神に成りすます裏の事情を隠している。嘘つきは神に対する冒涜でしかない。明治革命にはこの裏事情が続いている。その為に日本民族は自分の事しかかんがえられなくなっている。これぞ唯一志望の明かしである。相手への思いやり安念がなくては、人間らしさは宿らない。{三州+人間}
「九州の語源には神殿邪馬壱国のある王と都の事」世界初公開
三角縁神獣鏡が持つ意味とは、これらと同じ宇宙が根源である。
世界で三角を持つ国は神々と九州のある国である。{三州とは祀る言葉で生きてくる}
邪馬台国が30余りの倭国の連合体、「ヤマ」とは三角州。
「ヤマタノオロチ」は「多くの頭をもった大蛇」という人間を害する思想悪魔絶対の中にある。神話では退治という言葉で表現している。神話の中には同じ悪に対し退治という言葉で表現している。
州とはいったい何が根源になっているのか?日本語にまつわる言語州?
中国の四大美人の西施のように美しいという意味合い。
http://www.xitong.net/hztour/rakuen.html
中国古代の美女西施にかかわる国の王と三角州。邪馬臺国王
http://www.alachugoku.com/cityinf/hangzhou/SHtop.htm
人間は言葉にこだわり、人間以外野蛮は言葉と関連しない。
紙本墨画 西湖図 弘治九年閏三月一三日の年記(1幅)
 室町時代 秋月等観筆
http://www.pref.ishikawa.jp/bunkazai/kaiga/3.htm

西湖は王により生み出された言葉でその中に、三角州を描きその中で一番尊いものを神に例えた。こうして意味が解釈出来ないと、言葉の持つ価値は無くなるので、他に移り化ける。
 

邪馬臺国は九州を造る

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月30日(日)10時03分44秒
  九州を造るとあるのは、まだ未発表だが、邪馬臺国の国九州となす。
之三州を持って神仙山に住まう天王也。
三州(さんしゅう)とは手法を意味する、特に土地の名前や言葉にも連綿と受継がれてきています、例えば三州瓦、三州足助屋敷(さんしゅうあすけやしき)とは、愛知県豊田市にある観光施設のことである、ここにも歴史が残っています。http://www.nipponrentacar.co.jp/freeroad/asuke.htm
どのような関連なのかは、その足跡の中に見えている、探せばまだ、他の土地にも地名や言語に、風習が残っているかも?

足助氏のかかわりに、三州の語源が残っている。
三州粘土瓦は、高浜、碧南、刈谷を中心. に産地が形成
いぶし銀には、邪馬台人の祖先の知恵から生み出され、造られたものであり、技法の根源はこの邪馬台元祖に行き着く。いぶし銀はメッキ加工のことで金箔にも活かされている。
すでに邪馬台人8000年の歴史がある。
日本人が忘れているものは人間や民族の尊厳にもかかわる重大な過失であろう。
脅かされ、続ける西洋民族文化には、奪うことでしか、生きられない過去の歴史が残る。歴史の原点を日本人が、失うとそこには、西洋民族文化の都合主義の犠牲になるしか、ない。
現在起きている牛肉輸入も、都合主義の犠牲になることを覚悟してのことではなかろう。
断れば、彼等の習性の悪魔が見えてくる。これが西洋憲法黄泉の道の手法でもある。

【原始習性】
この言葉の中には儀式がこの西洋憲法であり、占うことは犠牲に捧げモノが発生する。
これが卑弥呼や原始習性の表れである。原始の言葉の裏には、絶対主義の原則しかない。
それが憲法の絶対主義の原則に早く日本人は長い眠りの魔法から目覚めなければ、死あるだけの民族しかない。それは消滅を表わす。我々民族は連綿と受継いできたからこそ、現代の現実があり、そこに今達していて、どう生きながらえるか、考えなければ、消滅を待つしかない。人間の世界の道を説いたのは神であり、王デアル、コノ王の威光に叛くと、人間では無くなるのは、目に見えている。

言葉の言語には根源がある、その根源が神の尊さの中にある、神と偽り人間となるのは、根源にならないように、長い歴史の中にも、人間三州がなくては、息絶えてし。神話の中にある返り矢は、言葉の言語根源を表わしていた。原始の根源には絶対という、一つの決まり言葉しか、持ちえない。三州の言葉には複数の言葉の根源があるから、三州で持って神々の世界なのだ。
 

[ハビアン]は、吉田家に伝えるという神代文字を偽書云う

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月26日(水)13時57分36秒
  不干斎ハビアンの話
まさしく一神教は非常に「不自然」です。あの一神教的な祈りの瞬間は人間が従属している「自然」を超えようと願う行為です。
私が揶揄した日本の多くのキリスト教の様態とは、この「不自然」をなんだか憲法解釈ではないですけど聖典解釈をして、「自然」なものに落としてめているからです。
ハビアンの仏教・儒教・神道批判の吟味
そのために彼[ハビアン]は、吉田家に伝えるという神代文字や、天照大神と素戔鳴尊のう
けい(誓約)、天の窟戸説話などの荒唐無稽さを「笑止ト無分別ナル
と嘲笑し、時代の日本人の信仰の中心であった天照大神と伊勢神宮についても、「天照大神ト言ウベキ物ナシ。然時ハ、伊勢ノ大明神ト云ウモナンデモナキ事」と極言しているのである。」
「さてキリシタン宗徒がつめかけて満員の席上、まず時候の挨拶の後に羅山は「徒期(デイス)画像の事」を質問した。デウスの画像とはキリスト図のことであろうが、ハビアンは「浅近を恐れ」て説明を加えない。ついで「円模の地図」すなわち地球図が話題となる。」
ハビアンは後に棄教して、鋭いキリスト教批判をすることになります。

 さて、今回も今井淳・小澤富夫編「日本思想論争史」からです。

「さらに人間の祖とされる「阿檀」と「慧和」の失楽園の説に関して、「マサンノ菓子」すなわちりんごのような「アマボシ」を食べるべからずという神の戒めは「誠ニ笑具ノ第一」で、「老婆ヲ誑シ、小児ノ泣ヲスカスルニハ似合」った説にすぎぬと嘲笑する。」

咒讃(しゅさん)
「阿檀」地 仏駄波羶禰 薩婆陀羅尼 阿婆多尼
出典 普賢菩薩勧発品第二十八 普賢咒(抜粋)
意味 咒を唱えて仏徳を讃嘆、諸善奉行を誓う。
阿檀地。途賣反

「慧和」
二極分化
慧和自然的結晶
水の結晶の美醜が全く違ってくるのです
自然的条件 のなかで
世紀を越えて生きる叡智の結晶
各地域の地域性を自然的条件と社会的条件
ハビアンとの1606年の論争について述べている林羅山の『排耶蘇』に出て来る「円模の地図」も、その時の論争内容から察すると、地球儀の表面に描かれた地図を指していたと思われる。「地中を以て下となす。地上亦天たり。吾邦舟を以て大洋に運漕す。東極これ西、西極これ東。これを以て地の円なるを知る」をいうハビアンの言葉から察すると当時のキリシタンたちは、天国はこの地球を上下左右のあらゆる角度から包み込んでいる天にあり、地獄はこの地表世界によって封じ込められた地中の火の牢獄のような所というイメージを持っていたのかも知れない。
地獄の霊である「天狗」(悪魔)が多くの人を騙し地獄に導き入れようとして、各人の心に休みなく働きかけて来ることを信じており、このような天狗の策動に負けないため、しばしば神に祈る。
キリシタン他界観が、仏教と共に導入されたインドの輪廻転生思想を完全に排除して、この世においても煉獄においても、各人は神との一致と永遠の幸福を目指して自己変革をなし遂げるよう召されており、この世での各人の生き方如何で永遠の運命が決まる
キリシタン他界観は、日本人宗教心の原点と考えられる我が国古来の先祖崇敬や神頼みの習俗とも矛盾せず、それらを高揚し、新しい形に発展させる可能性を秘めていた
耶蘇(イエス)耶蘇 ( やそ )耶蘇(ヤソ)。イエズス
ハビアン思想
「死児変相」「ハビアン説法」
切支丹のファビアンは、自分では「ハビアン」と署名していた
ハビアン翻譯の天草版『エソポの物語』
真名と仮名で表記した国字本『伊曽保物語』が生まれる過程の中間に位置する文献資料が
明治43年まで日本にあったのです。これがこの時を境目に忽然と日本国から消えている
ハビアンと論争して切支丹宗を排撃し,またこの年前後のころ日蓮宗不受不施
派である松永貞徳の信仰を論難する道春。
不干斎ハビアンの浄土教批判 ― 『妙貞問答』における浄土四義説
ハビアンこと不干斎把鼻庵(ふかんさいはびあん)
ハビアンが『破提. 宇子』のなかで「呂宋[フィリピン],
ノウバ−イス. パニヤ[メキシコ]ナドノ,禽獣ニ近キ夷狄ノ国ヲバ,. 兵ヲ遣シテ奪之」

『妙貞問答』は日本人イエズス会士不干斎ハビアン(1565-1621)の著書で、妙秀、幽貞という2人の僧による問答形式を用いて、仏教、神道、儒教を論破し、キリスト教の教理を述べている。

ハビアンという日本人で、表題には「イソポの寓話、ラテン語を和して、
日本人の口となすものなり」とある。残念なことに、この西洋文学の翻訳第一号は、日本
では見られない。大英博物館に一本が所蔵されているのみである。
ハビアン平家物語夜話.
イソップ』の口語訳ローマ字本は文禄二年(1593)に“Esopo no Fabulas”と題して天草
のキリシタン学寮から出版され、訳者は日本人イルマンのハビアンであったという
 

平山王敏達天皇

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月22日(土)21時48分29秒
  舒明敏達の孫、彦人大兄皇子の子、母は糠手姫皇女
田村皇子が舒明であり、敏達の孫であり、押坂彦人大兄皇子の子で
あり、母は糠手姫皇女であることは明記されている。
『天豊財重日足姫天皇 重日 此云伊柯之比 渟中倉太珠敷天皇曾孫
押阪彦人大兄皇子孫 茅渟王女也 母曰-吉備姫王』
宝皇女こと皇極は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたら
しひめ)といい、敏達の曾孫、押阪彦人大兄皇子の孫、茅渟王の娘で
あり、吉備姫王を母とする。
古事記「敏達天皇」に押阪彦人大兄皇子の子女が記載されている。
『此天皇之御子等并十七王之中、日子人太子娶庶妹田村王。
舒明は異母弟・茅渟王の娘、つまり姪である宝皇女を娶った。
平山王系欽明→平山王敏達→平山王押阪彦人大兄皇子→平山王茅渟王→宝皇女
女系欽明→桜井皇子→吉備姫王→宝皇女
皇極天皇【35】は重祚しているから斉明天皇で後継は平山王中大兄(葛城皇
子=後の天智天皇)となる。女方は王にはなれない。

埼玉県比企郡都幾川村西平山王下 大宮堂?鷲宮?
 

日出処天子居筑紫城

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月22日(土)21時21分49秒
  遣新州刺史高表仁 持節往撫之 表仁 無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還
旧唐書の倭国伝
※ [イ妥] : にんべん+妥 という字。 「タイ」
イ妥]國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居 魏時 譯通中國
「日出ずる処の天子、 日没するところの天子へ書をいたす。
この意味には再生を表わしている。
始め有り手終わり有り。
倭国者 古倭奴国也 (中略) 世與中国通 (中略) 其王姓阿毎氏
ここでの阿毎氏とは天を表わしている。宇宙天文学の国の意。

八子九孫治
『新唐書』の日本国伝
、「其王、姓阿毎氏。自言、初主號、天御中主。至彦瀲、凡三十二世。
皆以尊爲號、居筑紫城。」

『新唐書日本伝』冒頭(原文)
日本古倭奴也去京師萬四千里直新羅東南在海中島而居東西五月行商北
三月行無國城郭聯木為柵落以草茨屋左右小島五十餘皆自名國而臣附之
置本率一人檢察諸部其俗多女少男有文字尚浮屠法其官十有二等其王姓
阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為號居筑紫城彦瀲
子神武立更以天皇為號徒治大和州次日綏靖次安寧次懿徳次孝昭次天安
次孝霊次孝元次開化次崇神次垂仁次景行次成務次仲哀仲哀死以開化曾
孫女紳功為王次應神次仁徳次履中次反正次允恭次安康次雄略次清寧次
顕宗次仁賢次武烈次継體次安閑次宣化次欽明欽明之十一年直梁承聖元
年次海達次用明亦日目多利思比孤直隋開皇末始輿中國通次崇峻崇峻死
欽明之孫女雄古立次舒明次皇極其俗椎髷無冠帶
欽明の十一年は、梁の承聖元年(西暦五五二年)

つぎは海達(敏達の誤り)、次は用明、また、なづけて多利思比孤と
いう。
隋の開皇(五八一年〜六〇〇年)の末。
欽明の孫女雄古(推古の誤り)立つ。次は舒明、次は皇極。

其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為號居筑紫城
彦瀲子神武立更以天皇為號徒治大和州.

京師(長安)王の姓は、阿毎氏初主は天の御中主と号す。
彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城にいる。

『古事記』上巻
天地初發之時於高天原成神名天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】
天は、{天子}の天で、中国思想において極めて重要な概念

『新唐書』日本傳

長安元年、其王文武立、改元曰太寶、遣朝臣眞人粟田貢方物。朝臣眞
人者、猶唐尚書也。冠進徳冠、頂有華[冠艸脚白爲]四披、紫袍帛帶。
眞人好學、能屬文、進止有容。武后宴之麟徳殿、授司膳卿、還之。
文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。開元初、粟田復朝、
請從諸儒授經、詔四門助教趙玄默即鴻臚寺爲師、獻大幅布爲贄、悉賞
物貿書以歸。其副朝臣仲満慕華不肯去、易姓名曰朝衡、歴左補闕、
儀王友、多所該識、久乃還。聖武死、女孝明立。改元曰天平勝寶。
天寶十二載、朝衡復入朝、上元中、擢左散騎常侍、安南都護。新羅
梗海道、更yeu[扁右搖旁系]明、越州朝貢。孝明死、大炊立。死、以
聖武女高野姫爲王。死、白壁立。建中元年、使者眞人興能獻方物。
眞人、蓋因官而氏者也。興能善書、其紙似繭而澤、人莫識。貞元末
、其王曰桓武、遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業、歴二
十餘年、使者高階眞人來請免勢等倶還、詔可。次諾樂立。次嵯峨。
次浮和。次仁明。仁明直開成四年、復入貢。次文徳、次清和、次
陽成。次光孝、直光啓元年。

其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王、北距新羅、西北百濟、
西南直越州、有絲絮、怪珍云。

流鬼去京師萬五千里、直黒水靺鞨東北、少海之北、三面皆阻海、
其北莫知所窮。人依嶼散居、多沮澤、有魚鹽之利。地蚤寒、多
霜雪、以木廣六寸、長七尺系其上、以踐冰、逐走獸。土多狗、
以皮爲裘。俗被髪、粟似莠而小、無蔬[冠艸脚瓜瓜]它穀。勝兵
萬人。南與莫曳靺鞨鄰、東南航海十五日行、乃至。貞觀十四年
、其王遣子可也余莫貂皮更三譯來朝、授騎都尉、遣之。

   龍朔初、tan有[扁人旁右澹]羅者、其王儒李都羅遣使
入朝、國居新羅武州南島上、俗朴陋、衣大豕皮、夏居革屋、冬窟室。
地生五穀、耕不知用牛、以鐵齒字杷土。初附百濟、麟徳中、酋長
來朝、從帝至太山、後附新羅。

開元十一年、又有達末婁、達[女后]二部首領朝貢。達末婁自言北扶餘
之裔、高麗滅其國、遺人度那河、因居之、或曰他漏河、東北流入黒水。
達[女后]、室韋種也、在所那河陰、凍末河之東、西接黄頭室韋、東北
距達末婁云。

『晉書』 巻九十七四夷傳 東夷条倭人
晋書は、西晋4代54年(265−316)唐の貞観年間644年頃に編纂
自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。昔夏少康之子封於
會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。
當會稽東冶之東。其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。
婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾
稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲
鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣
迎之。
死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴
自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知
正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦
女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族
滅其家。舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。

乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝
作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。


王の姓はひらやま平山也。尊為號居筑紫城

知奴王は漢王の妹と敏達天皇の子舒明天皇も九州・筑紫・に大変
関係の深い人物。筑紫=平山

皇極・斉明天皇初め用明天皇の孫・高向王に嫁ぎ漢皇子生みましたが
、のちに田村王(舒明天皇)に嫁し、夫の即位に伴い、舒明天皇、の間に
天智・天皇と間人皇女を生む。

舒明天皇『平山中継祖』姓はひらやま平山也。紋章違い山
日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年(629年)1月4日 - 13年
(641年)10月9日)。田村皇子(たむらのみこ)。 別名は、息長
足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。
敏達天皇の孫。彦人大兄皇子の子。母は糠手姫(ぬかてひめ)皇女。
宝皇女との間に葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女(孝徳皇后)・大
海人皇子、夫人の法提郎媛(蘇我馬子の女)との間に古人大兄皇子
をもうける。第34代舒明天皇(593〜641年)

推古三十六年(628)三月、推古天皇が崩じ、山背大兄皇子と共に後
事を託される。翌年一月、蘇我蝦夷の後援により即位。舒明二年
(630)、宝皇女を后に立てる。

王の姓はひらやま平山也。尊為號居筑紫城
 

邪馬壱国(文・漢)系、越人

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月22日(土)19時59分1秒
  彦瀲」(うがやふきあへず)に至るまでは、「日本王」は筑紫城にいた、
というのである。
以降は、神武を始めとした、「天皇」の系譜
『旧唐書』には
倭国は古の倭奴国なり。<旧唐書、倭国伝>
日本国は倭国の別種なり。<旧唐書、日本伝>
両者が別国である
「日本の王の姓は阿毎氏」。「彦瀲」(うがやふきあへず)に至るまでは、
「日本王」は筑紫城

曰く『倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す。
「日本は旧小国、倭国の地を併す」と。其の人の入朝するは、多く自ら
矜大。実を以て対えず。故に中国焉を疑う。
「其の国界、東西南北各数千里。西界南界、咸大海に至る。東界北界、
大山有りて限りを為す。山外即ち毛人の国」。<旧唐書、日本伝>北方

朝鮮の歴代王朝
箕子 姓子諱胥餘都平壌紀元巳卯(周武王元年)傳世四十一年歴年九百二十九
四郡 漢武帝時以朝鮮故地為楽浪臨屯玄菟真蕃四郡
高麗は出自、扶余の別種なり。<旧唐書、高麗伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。<旧唐書、百済伝>
扶余を母体とし、そこから別れ出た種である。
『隋書』においては、「[イ妥]国伝
七支刀(=百済王が日本王に送ったという宝剣)

秦忌寸(はたのいみき)。山城国
太秦公宿禰(うづまさのきみのすくね)と同じき祖。秦の始皇帝の後(すゑ)
なり。功智王(こうちわう)、弓月王(ゆづきわう)、誉田天皇(ほむだのす
めらみこと)[諡は応神]の十四年に来朝(まゐ)りて、表(ふみ)を上(たてま
つ)りて、また、国に帰りて、百二十七県の伯姓(たみ)を率て帰化(まゐ)
り。また、金銀玉帛種々(こがねしろがねたまきぬくさぐさ)の宝物等を献
りき。天皇嘉(め)でたまひて、大和の朝津間(あさつま)の腋上(わきのか
み)の地を賜ひて居らしめたまひき。
男(こ)、真徳王(しんとくわう)。次に普洞王(ふとうわう)[古記に浦東君
と曰ふ]、大鷦鷯天皇(おほささきのすめらみこと)[諡は仁徳]の御世に、
姓を賜ひて波タ(はた)と曰ふ。

日本王が「先祖の中の日本の桓武天皇(西暦781年-806年在位)の生母が、
百済の武寧王
の子孫」という話を>慎重に表明したのは、昭和天皇自身の心の中の痛み
を打ち明けられたものと見ています。
かくもまだ、為現に今開示したのは、日本の歴史認識の不名誉なまま
では、ご自身から靖国神社に否定されたのと、相通ずる。
政治家の独走に危惧されたのであろう。この発表元が代理されたと思う。
政治家は停止して、現天皇の御意思に逆らい続けるのか?
もはや現天皇に対して反逆となっているのは確かであろう。

夏四月庚辰朔、在百濟日本王人、方欲環之[百濟本記伝、四月一日庚辰
、日本阿比多
還也。]。 百濟王聖明、謂王人曰、任那之事、奉勅堅守。延那斯・麻都
之事、問與不問、
唯從勅之。 因獻高麗奴六口。別贈王人奴一口。皆攻爾林、所禽奴也。
 

百濟始祖 温祚王

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月22日(土)19時10分20秒
  温祚王 其父鄒牟 或云朱蒙 自北扶餘逃難 至卒本扶餘 扶餘王無子
 只有三女子 見朱蒙 知非常人 以第二女妻之 未幾 扶餘王薨 朱
蒙嗣位 生二子 長曰沸流 次曰温祚 【或云 朱蒙到卒本 娶越郡女
 生二子】 及朱蒙在北扶餘所生子來爲太子 沸流・温祚 恐爲太子所
不容 遂與烏干・馬黎等十臣南行 百姓從之者多

温祚都河南慰禮城 以十臣爲輔翼 國號十濟 是前漢成帝鴻嘉三年也
不得安居(やすらい) 歸見慰禮 都邑鼎定 人民安泰
後以來時百姓樂從 改號百濟

其世系與高句麗 同出扶餘 故以扶餘爲氏 【一云 始祖沸流王其父優台
 北扶餘王解扶婁庶孫 母召西奴 卒本人延勃之女 始歸于優台 生子
二人 長曰沸流 次曰温祚 優台死 寡居于卒本 後朱蒙不容於扶餘
以前漢建昭二年 春二月 南奔至卒本 立都號高句麗 娶召西奴爲妃
其於開基創業 頗有内助 故朱蒙寵接之特 厚 待沸流等如己子 及朱
蒙在扶餘所生禮氏子孺留來 立之爲太子 以至嗣位焉 於是 沸流謂弟
温祚曰 始大王避扶餘之難 逃歸至此 我母氏傾家財 助成邦業 其勸
勞多矣 及大王厭世 國家屬於孺留 吾等徒在此 鬱鬱如疣贅 不如奉
母氏 南遊卜地 別立國都 遂與弟率黨類 渡帶二水 至彌鄒忽以居之
 北史及隋書皆云 東明之後有仇台 篤於仁信 初立國于帶方故地
漢遼東太守公孫度以女妻之 遂爲東夷強國 未知孰是】
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokushiki/kudara/230101gen.htm
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokushiki/nf_kudara_menu.htm
古代史獺祭より
 

百済王近肖古王

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月22日(土)18時54分11秒
  近肖古王(クンチョゴワン、きんしょうこおう 生年不詳 - 375年)は百済王
(在位346−375年)。『日本書紀』では肖古王(しょうこおう)、『古事記』
では照古王、『新撰姓氏録』では速古王とする。中国名は余句。比流王の次男。


BC 18   温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる  慰礼城、現ソウル市付近)
 (百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある)
  (北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)

28   多婁王即位タル(温祚王の子)

77   己婁王即位コル(多婁王の子)

128   蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)

166   肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)

214   仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男 身長七尺という)

304   比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)

346   近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)

384   枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)

405   腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)

427   ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)

455   蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)

475   文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子)

479   東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)

501   武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)

http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/kodai/g01.files/06/kudara.html
 

百済斯麻王武寧王

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月11日(火)22時07分52秒
  近肖古(クンチョゴ)王の代に全盛期を迎えた百済
高句麗の広開土大王
武寧王は百済を立て直した王様(桓武天皇の母方)児島宮母方
1971年に武寧王の墓が発掘
出土品の90%は中国や日本からのもの
「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬
辰崩到」武寧王
武寧王陵の木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウ
ヤマキ)と判明
武寧王の墓からは、中国の梁(りょう)王朝の貨幣や陶磁器などが出土

4世紀後半に30年間在位した近肖古(クンチョゴ)王 百済は全盛期
北は平壌城ピョンヤンジョウの手前まで
百済と加羅、倭の軍が新羅を攻撃新羅は高句麗に救援を要請高句麗の勢
力は、百済と新羅を圧倒した
好太王平壌に九つの寺を建て、仏教を振興させたとして、天孫や倭東夷
箕氏朝鮮の末ではない漢民族。
 

東夷箕氏朝鮮

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月11日(火)21時48分52秒
  神宮皇后は熊鷲の討減を決め、3月17日に橿日宮から松峡(まつお)宮に
筑紫城に遷った。現在の松延池南に坐いす
新羅は簡単に降り、高句麗や百済も服属し、間もなく筑紫に帰還した。
この時期

「百済(伯済)」の語源となった。元の国は高句麗内(北朝鮮)
扶余の東明王の後裔である扶余王尉仇台が高句麗に国を滅ぼされ、百の家族
を伴って済海(海を渡る)し、帯方郡の地に国を建てた。それが「百済(伯
済)」の語源となった。
公孫度(?〜205)が娘を仇台に嫁がせ、東夷の強国となったと書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
黄河文明の中心地より、東側に住んでいたため、東夷と呼ばれた。
東夷箕氏朝鮮の末
百済が明らかに歴史時代に入るのは13代近肖古王(在位346〜375)
4世紀後半に30年間在位した近肖古(クンチョゴ)王の時、百済は全盛
期を迎えます。
百済は高句麗の領土拡張政策で都が漢江(ハンガン)の南へ移らざるを得なか
った、最後は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた。
3世紀半ば頃の中国の場子江の南部で作られた土器や日本で作られた土器や5
世紀頃の慶尚南道、すなわち加羅の土器も発見されました。250〜400年
この時期の王冠慶州塚のもの、天孫王一族に関係した人物のもの。
近肖古王が死んだ後、百済は衰退し始め、高句麗の広開土大王、続いて長寿王
の南下政策によって最大の危機に直面する
 

卑弥呼と祖霊崇拝

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月 7日(金)16時08分44秒
  アニミズムや祖霊崇拝の卑弥呼
アニミズム信仰で水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
中国、チベット、ミャンマー、モンゴリア系の民族
木棺の祖霊崇拝狩猟採集民族としての文化
白の木綿で織ったワンピース風の貫頭衣を着る。
漢族の影響が強い、渓流沿いの川に近い場所に村を作り地床式(竪穴式)
の家にすむ。
先住民族は、宗教思想的に同じくアニミズム信仰
棲む場所を確保され、アニミズム信仰は大地とつながっていく。
妖怪に対する畏怖と驕り
現実世界から逃避し、心の支えを欲した人々の特殊な想像によるものだと
考える
牛を生贄にする儀式が行われる
シャーマン
がおり中には100歳以上の女性シャーマンもいるといわれてる。
アニミズム信仰(モノ・タマ・先祖崇拝等)
古代人はいわゆるアニミズム信仰の一種として、巨大な石には神秘的な力が
宿ると信じた。
偶像崇拝のシンボルであったエジプトで育てられたモーゼ預言者となって
ユダヤ教徒であったキリストが、紀元1世紀、預言者となる
現実から目をそらす祖霊崇拝儀式。
卑弥呼と占いはここにある。
 

天には祭礼、地には儀式

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月 7日(金)15時44分59秒
  結婚するときには、新郎側が米を持って、新婦の家に持って行き、
結納の品として納めて、一緒にごはんを食べることになっていました
ふたりは米を撒く悪霊を追い払い、災いから2人を守ってくれるという

ゆするつきには、米のとぎ汁が入っていて、髪を梳く時に使用しました。
これと、ほとんど同じ意味が込められているのでしょう。

http://j1.people.com.cn/2006/04/06/jp20060406_58786.html
「イワクラ」とは、「磐座」大切な場所古代人の信仰
健康な状態とは、身体の中に 死生観がある状態を言います。予期
せぬ事態もある、キリスト教がアニミズム信仰 アニミズムや祖霊崇拝

三角地帯祭礼自然を崇拝する
先祖の神様とか、森の神様とか、川の神様とか
祭主がいなければ、毎年行われる村の入り口の門を建てる儀式が行えない。
行えるとしているのは、陰があるから神聖にはならない。
共同体が存在することが必然

http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-2002-12-2-3-2.htm

 

神聖なる儀式

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月 7日(金)15時13分2秒
  人間生活の習慣礼儀作法なのです。
このように、シュメール人は二つの儀式を区別して使い分けていた。
天の為の神への儀式は神聖なる儀式である。
地の儀式は人間から悪霊払いの儀式である。
これらは、王と接する中で、暮らしと密着した方だけ取り入れた洪さん
が、民族の習性に表われている。これらは唯一自由の語源である。
人間には二つの儀式が、携わらなければ、片方では、人間は成り立たない
のです。
生物としての人はそこでは人間、つまり人と人との間と呼ばれています。
この間には二つの力が共存していないと、成り立ちません。
現代では、失われてしまいましたね、神々の神力を廃止してしまい、地の
災いばかり(自由)を選んでしまいました。
これでは、神聖なるが判断理解出来ません、歪みは何故起きるのか、その
根源は測りを持ち得ないからなのです。
間はこの『測り』のことなのです。
間のない動物は人間の顔をした化物なのです。
これが神聖なる儀式おこしやす
やすの語源に間が保たれている。
 

卑弥呼儀式再現

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月 7日(金)14時52分47秒
  倭人の儀式再現
災厄から人々を守るために悪霊払いの儀式
つくられた場所で生贄の儀式が行われる。
祈りを捧げる
卑弥呼儀式のために持ってこられた人間の代わり生贄動物。
捧げられた動物の命が、鳴き声がひびき、絶たれる。
祈る人々。
生贄を捧げなかったら飢えた悪霊は血を求めて災厄を引き起こすと。
死への思想にも結びついている。
 

倭王とされる金印

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月 7日(金)13時44分6秒
  漢委奴国王」=「委(奴)国」」(57)、と

卑弥呼が景初3年に魏の明帝から親魏倭王」(239)金印を授かった 親魏
倭王太夫灘升米は洛陽の牛利についた、ここでとされる金印
今、汝を以て親魏倭王とする。
ここでの卑弥呼は倭王としている。
耶麻はその後に始まる稲作の儀式。
 

卑弥呼の墓は夜須にある 

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 7月 6日(木)20時25分34秒
  『鬼神の儀式と卑弥呼墓鬼神山』
卑弥呼は鬼神の儀式を執り行い、原始宗教の流れに俗していた。
原始宗教とはいけにえ、を祠の斉場にささげて、火をたいて骨で占う。
東北地方でも卑弥呼よりも古くから同じ形式が行われたであろう。
卑弥呼=鬼神であり、筑前町夜須吹田赤坂にある鬼神山に卑弥呼の墓が
ある。ここは近年文化財の一部調査で端付近では木棺が出土していた。
それは卑弥呼と墓を探る上で貴重な資料が出土したのである。
これが卑弥呼ではなく、墓はまだ上に位置している。
吉野ヶ里と同じ葬り方と思われ、列墓形式であろう。
そこには甕棺様式と推定される卑弥呼女王の墓が眠っている。
祝詞に出てくる大木原は現在大木遺蹟で知られ、甕棺墓群落が出土した
現筑前町役場が古代の卑弥呼の儀式が執り行われた祠があったであろう。
大木遺蹟の甕棺から弥生後期の山信仰の線刻画が見つかっている。
それはこの地方が古代でもっとも重要視されなくては、ならないのだが。
この時調査では禊?の為の川が流れていたと、担当の石井女史から聞いた。
縦て横に水路が深くなっていたのが謎であった。目的が何なのか?

『この周辺から金印が出土』

今日は卑弥呼について出だしに述べておこう。
ひめこは、女である。
女(め』子は卑弥呼をさしている。
皆さんが飛躍した論争にひた走るのは、これが理解されていない
為でしょう。
この国は倭国であること、から出発しましょう。
倭とは倭国のことですね、ですから邪馬台国とは何の関係もなし。
倭国は108年に魏国に貢献して男が魏国に使いを出したのに始まる。
この頃すでに、倭国は30カ国に分かれていたとある。
ですからこの倭国の一国の事になります。
そこには奴国(ナ国筑紫)と記される、酋長は金印を拝受しています。
志賀島から発見されたと記しているが、書き換えられた形跡が見えて
いて、ここに皆さんがまどわされている、部分ですね。
第一そこから出土するなんて、事は記されていません。
これは黒田藩が盗掘を防ぐのに、書き改めたと見ています。
ここでは奴国(筑紫野市一帯)のことで、『記紀』編纂の安麻呂の先祖
の地が、奴国とされています。三笠臣もこの地とあります。
天智天皇の臣下に採用されたのにも、筑紫はかかわってていた、からと
思いいます。三笠の地名の根源は神宮皇后が筑紫下りの時山家付近を通り
かかった折、風で笠が飛ばされたので、三笠と付けられたと、はっきり
していますね。場所はこの筑紫野市山家とあります。
古代の耶麻都はこの付近に置かれたと、想定しても差し支えないでしょう。

ここに大和以前の都が置かれていた事が伺われる。
とすれば、卑弥呼もこの地と見ても差し支えないでしょう。
それは耶麻国の以前の倭国の王(出雲族)がこの地に住んでいたのでしょう。
ここは夜須町一帯の遺蹟の範囲は倭族の遺蹟の甕棺がとても、広い範囲に
集合していることにある。環濠集落の群落と見られる。
卑弥呼はその地の女王と記されている事からも、卑弥呼と鬼道との関係
は、外の地には見られない事も、鬼神の祭りに見られる、儀式とは火祭り
と、生け物を捧げる占いに、根源があります。
倭族はこの儀式が重点にあるのです。そこには場所が定められていて、
占いをするのに、祠が築かれていたのです。
祝詞に出てきます、小戸と記しています。
ですからこの周辺から金印が出土したはずです。
 

傍天平山祖

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月27日(火)19時58分41秒
  天平山国家太湖名
http://www.nettvl.com/js/tps.htm
天平山庄位于城西8.5公里天平山南麓,1982年被列??州市文物保単位,
1995年被列江芳省文物保。
傍天平山祖
http://www.ahdy.com/ahdy/Article_Show.asp?ArticleID=755
中腹
に芳香な泉がある次は「雨」太湖 天平山
天平山図 文徴明筆
白楽天の詩に「天平山上白雲と泉、雲白く無心に. して水自ら潤う、
何ぞ必ずしも山下
に奔衡して去り、. 更に波浪に添えて人間(じんかん)に向かわんや」
. というのがある
名の由来は山腹に池があることから
これぞ三州也か。
 

天皇姓がある今から1730年前

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月27日(火)16時29分54秒
  天皇家には古代より姓がある、
それが現代では宮姓でないのは、おかしい?
とう歴研会では今世紀最大の謎にせまる。

天皇に姓がつけられたのは、今から1730年前に墳墓につけられたのが、
始まりである。
それによると鷲墳墓の中に、この謎が秘められている。
舒明天皇もひらやま「ひらやま」と云う。
このひらやまに謎が秘められている。
ひらやまの語源にあり、倭と天の語源にある。
「倭と天」とは倭族と天神の融合から歌合により、名づけられたもの。

ここにひらやま平山が開かれた。
天の岩戸開きはこの時に始まる。
王の御陵がこの西の墳墓にあたり、日出る国にあたる。
卑弥呼も葦原国に居たのが見られ、ここで統治していて、葬られた墓地
もこの地にあろう。
 

天之序莫重於郊祀。に反抗土蜘蛛

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)10時01分38秒
  東夷のなかに日高見国(おそらく北上川流域をさす)あり、その国人
、男女ともに髪を
分け(椎結)、文身(入れ墨)で、ひととなりが勇敢であって、これ
を総て蝦夷という 禅を承く。易姓禅譲革命「いじめ」である
日本政府の「国民いびり」

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

東夷民と入れ墨

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)09時54分16秒
  武内宿禰は東国より帰ってこう奏言した。『東夷の中に日高見国があります。その国人
は男女とも椎結して、体に入れ墨をしています。人となりは勇敢で、これを全て蝦夷とい
います。

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

奏言

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)09時50分50秒
  王と奏言
三司しょ司の事務運営
尊以夢辞奏言「日本書紀巻第五」
治天下。此天奏言

奏言(まを)言詞(ことば)
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits8.html

奏言。因拜太神大御子物詔 古事記中卷

土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「
皇孫の尊、
尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば
、必ず開晴りな
む」とまをしき。 時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と
為して四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」と

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

天子とは

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)09時31分22秒
  中国において天子とは、天からの命を受けた至徳者の称号(註2)とみな
される
『令集解』の諸説では、古記によると祭書に将い記す字で「辞はスメミマ
ノミコトと称するのみなり」

天皇が皇女、皇親女子を娶るのは普通のこと、光仁以後の男帝について
も基本的には同じこと
皇女を妻として皇位継承の正当化を図る

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

仁明天皇の四十の御賀で献上された興福寺の僧の長歌

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)09時19分56秒
  『続日本後紀』嘉祥二年(849年)三月二六日条
「日の本の 野馬臺の国を かみろぎの 少那彦名が 葦管を 殖ゑ生
しつゝ 国固め 造りけむより  (中略) 御世御世に相承襲て
皇ごとに現人神と成り給いませば 四方の国 隣の皇は百嗣に継ぐという
とも 何にてか等しくあらむ (中略) 帝の御世 万代に重ね飾りて
 栄えさせたてまつらむ  (中略)  日の本の 倭の国は 言玉の
 幸ふ国とぞ 古語に流れ来たれる 神語に流れ来たれる」

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

光仁と桓武天皇と児島宮祖

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)09時17分9秒
  『古事類苑』『皇室制度史料』が諸王の身分から、即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げを、弘仁五年以後の親王宣下制度の嚆矢とみなしている
三世王即位、兄弟為親王不。答。得也」
親王ないし王の子どもであれば、その子は王でなければならないわけです
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/08/index.html

魏王朝は、曹操が、漢王朝献帝を奉戴し、皇帝の周囲の勢力を粛清、自滅
させることにより事実上皇帝を傀儡化し帝位を事実上簒奪する

天孫は日向に天降られたけれども、神武天皇は大和で王業を成就せられた
から、その大和をもって全国の総名(惣名)とし、やまとという詞に日本
という文字を当てたのが、日本国号の由来

中国における国家概念を継受しているのは確実であるから、女系継承−
易姓革命なら国号を
改めなければならない。皇孫思想、神裔統治の思想

明治易姓革命なら日本国はおしまい。
それが筋目というものです。

我が国は中国の国家概念を継受している

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

奏言の中に「漢氏、天子の位

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)09時02分36秒
  「禅代衆事」の十月乙卯条に見える尚書令垣階等の奏言の中に「漢氏、天子の位
を以て之を陛下に禅り、陛下、聖明の徳、暦 ... 曹操は、213年魏公に封ずる詔が
下され、漢王朝は事実上、冀州の魏郡など十郡を割譲し魏公国の領土となり、魏国に社稷・

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

万葉集 巻5 0794 

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)08時53分2秒
  (おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に
   泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず
   年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に
   打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
   岩木をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形はあらむを
   恨めしき 妹の命の 吾(あれ)をばも いかにせよとか
   にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます

      反し歌

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朝倉郡夜須町の由来

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月21日(水)08時36分46秒
  '''朝倉郡夜須町の由来と起こり'''

朝倉郡は東郷と西郷に分かれていた。
古代がまだ開けて居ないときは豊葦原国と記されていた。これは北部九州もまだ、命名されていない、時期。
記載されたのは、六世紀後半に『記紀』編纂からである。
以後見られるのは『文徳記録』の中に筑前国奏言郡大領と見える、近衛家の
筑紫太宰府政庁と天満寺(太宰府神社)管理の為の用地であった。
筑前国奏言郡大領の頭目は前田臣市成であった。
近年の政庁調査に於いて、荷札に墨書きされた、木棺が出土し、『文徳記録』に誤りが無いことが証明された。太宰府歴史資料館蔵となっている。
文徳天皇の子供は清和天皇と小野宮で、相撲『角杯』で後継は清和天皇と
なる。

筑紫太宰府政庁と天満寺(太宰府神社)の為に天皇側近である近衛家が、筑前を任されたのは、古代からの宮廷の「鴻臚館」との関係も考慮しなければならない。封建制度にあっては宮廷の交易の為の施設でもあった。
紀元前(きげんぜん)3世紀ごろには、稲作農耕と神が伝わってきています。
古代の迎賓館[[項目名]]http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/kourokan/kouro1.html
来朝した外国人を接待したり宿泊させたりする宿舎。この関係は夜須と深く繋がっている。大和に拠点を移してからも、その関係は続いていた。

・夜須町の起こりは、「研究家古賀氏編纂近代」説による役場教育文化財により、発表されていたもので、自説による採用であった。
これは、「記紀」や祝詞とも、かかわり無きもので、根拠なきもの。
祝詞では、夜須とのかかわりは、葦原国を「安邑と平らけく」に始まり、この地名は王国の名前の中国会稽の安邑時の地名の、持ち込みで、日本内でも、似た地名跡があるのは、こうした風習があたからの事。
大和に移って以後、安国は縮小され、土のちなむ、、埴夜須から、夜須に転化したものが地名の起源。著作児島宮歴史刊行会

http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

 

歴史の虚実をあばく

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 6月13日(火)10時45分33秒
  現在まで知られてきた歴史はすでに800年の虚実から引き継いでいて、
幕末に至り、又新しい教育勅語での、天皇が現れたのは国民に知られて
いなかった。ために天皇御陵もすべてが改竄されていて、その原因は
明治革命の実行犯であった。現代迄貴族や華族と言われてきた家はそれに
類している。
遺蹟調査で捏造が簡単にわかるが、今まで宮内庁や神社庁が、仕切って
いてはままならない。
其処にある、「ままならないとは」隠蔽された歴史がある、これが実行犯
によって、捏造されていた。
民衆は誰も知らないのは、力てで憲法なる占いで、民衆は是に違反すると
実行犯の手下である検察や警察から、にらまれて、身動きできない仕組み
がそこにある。これが彼等の自由主義の歯止め、つまりは人間洗脳されて
いる。本来は日本には雨が山に降り川となり、きれいな水や河川であるが
、人間の煩悩である自由唯一主義は、綺麗な水を汚染させている。

日本の汚染の原因は、天皇の歴史にあり、天の神なら汚染にはならない。
美しい綺麗なものは天皇では無い、天地の法則を知らない実行犯とその手下
によりねじ曲げられて、精神の根腐され状態をきたしている。
これでは歴史も何もない世の中にしているのは、明治革命実行犯と右翼の名
の基「正義」のふりをしているが、街戦車に乗り旭日日章旗を掲げているが、
これは、
明治革命実行犯の手下として活動の外ならない。正義ではなく悪の巣窟その
もの実行犯の手先にしかならない。戦前戦後の右翼と政治は宮内庁や神社庁
と手を結んで、正義の神と国民を洗脳してきたが、いつわりは、川の水のよ
うに、最後には必ず汚れているのが、誰にも解る。これが自然の天地の法則。

国を汚す原因は、憲法改正で、民主化はこれに同じである。
どちらも人間により、例え憲法でも人間には汚染でしかない。
やたらと改革改革としているのが、それで、それは自然で生きてきた人間に
は阻害となるのは確実憲法そのもの、が実態である、汚染のみなもと。
これが明治革命から始まるのは誰もが、知っているが、正義とうたい日本人
を洗脳しているのは、誰も見つけきれて居ない。これが教育勅語が原因で
愛国心は、自然感の知識には記されておらず、実行犯が作った洗脳教育で
知恵の無い、者は神々と天皇美意識は備わらないのが常識。
正に煩悩の何も無い人間の過ちの、行く先は汚染された世の中にしか過ぎ
ない。
保険金の不払いや生命保険の違法営業など法令違反が相次いだとしている
のも、今の世が汚した政治が原因で法令違反が起こるのは、国全体に蔓延
している事が見えていて、隠れて隠蔽しても、見えなくても、見つかれば
国全体に及んでいるのが解る。
汚染した川は、そこに行かなければ見えないし、目で見れば誰にも汚い事
が見え。知らないのは見ていないからである。

もともとは明治三年五月十五日「太政官布告第三百五十五号」『陸軍國旗
章並諸旗章兵部省挑灯幕等圖面之通ニ候條府藩縣一般紛敷印相用申間敷候
事』という布告の中で「陸軍御國旗」という名で初めて公的に示された図
案です。
 

壱岐「原の辻遺跡」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月30日(火)21時55分7秒
  長崎壱岐市の「原の辻遺跡」再調査により、同遺跡の船着き場跡が大規模
なものだったことを確認。
《原の辻遺跡》http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-kouko/A1-nagasaki/A1iah-harunotuji/harunotuji-t.htm
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-kouko/A1-nagasaki/A1iah-harunotuji/fl-harunotuji.htm
『魏志倭人伝』に登場する『一支国』
石積み護岸遺構出土
http://homepage1.nifty.com/HAKUSEN/hara9/hara9.htm

http://homepage1.nifty.com/HAKUSEN/hara/hara.htm



国内最古の船が慶尚(キョンサン)南道・昌寧(チャンニョン)から出土した。
地表6.5メートル下の深土層で木船を確認
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/09/06/20050906000001.html

船の大きさは最長3メートル10センチメートル、最大幅60センチメートル、
厚さ2〜5センチメートル、深さ約20センチメートルで、U字形に丸木を掘
って作った丸木船。
韓国で出土した古船舶は、統一新羅(シンラ)時代の慶州(キョンジュ)
雁鴨池(アンアプチ)から出土した船(西暦8世紀)、高麗(コリョ)時
代の莞島(ワンド)船、十二洞波船(西暦11世紀)など
 

ひらやま御陵の所在地「ひむか」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月30日(火)21時33分50秒
  日向の意味とは太陽が出る方角に位置するという意味。 ひゅうがの語源
は薩摩にあるとされている、ウガヤ陵に 因み、付けられた語源でそれは
島津初代による、地名で 現存していない、ウガヤ陵一帯に遺蹟の跡すら
発見され ておらず、呼び名から見ても、正式な呼び名はひらやま 陵とさ
れたのが、何時の間にかひゅうがになったもの。 日が出る方角が「ひむ
か」東方としたもの。 ここでの語源の解釈は「ひむか」が正しい言語。
児島説

又の名を筑紫城に居るとした『多氏古事記』にも、記されているウガヤ王の
住まいは、筑紫即ち福岡県朝倉付近に位置した事が
神宮皇后の松峡宮こと即ち筑紫城と記している。
そして安邑(やすむら)をたいらけく、と詠む祝詞の中の言葉が、位置を表し
ている。
夜須町の古代遺跡ではこれに相当する遺物が豊富に出土しており、壱岐の
遺蹟との酷似する環濠跡は夜須町の役場の大木遺蹟にも、同じ跡が出土して
居た。
 

狩野孝信室養秀院

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月27日(土)21時42分24秒
  狩野孝信
元亀二(1571)年11月25日〜元和四(1618)年8月30日
佐久間信盛女子養秀院ー狩野孝信妻ー探幽、尚信、安信を儲ける

 佐久間信盛女子佐々清蔵室ー長女(随泉院)寛永系譜帳に有り
 佐久間信盛女子佐々清蔵室ー次女(岳星院)は、関白・鷹司信房に嫁ぐ

以後吉田兼右により改竄された系図の佐々成政とつぐとあるのが、実際には
佐々清蔵が本能寺で死んだとあり、子供は叔父の佐々成政に前田玄以が預け
たのにも、見られるように、佐久間信盛室は前田種利で有り縁故故預けた。
佐久間と佐々成宗とは縁故と八幡宮に残されている板書寄進にも佐久間信盛
佐々成宗二人が揃って寄進している。
一族の婚姻があるのも、児島系ではの有り方であった。
 

甥佐々清蔵室

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月26日(金)22時57分51秒
  長女(随泉院)家臣松原五郎兵衛室; 次女(岳星院)甥佐々清蔵室、
関白鷹司信房後室;
三女(光秀院)信長七男織田信高室; 四女(松寿院)家臣神保氏興
室; 五女 山岡景以室.
他に絵師狩野孝信に嫁いだ娘養秀院がいたとされる。

佐々
清蔵に嫁ぐものの夫は本能寺の変で信長に従って死去してしまう。
清蔵との間に、五郎四
郎なる人物があり、その五郎四郎の子のひとりが信濃守である。
次女・岳星院は、関白・鷹司信房に嫁ぎ、七人の子女をもうける。そのうち、
嫡子・信尚は関白、二女・孝子は徳川三代将軍・家光の正室となったほか、
孫・信子は五代将軍・綱吉の正室になった。
関白鷹司信房(二条家からの養子)の正室の岳星院輝子
信房の生母は、父二条晴良の正室の位子女王(父は伏見宮貞敦親王)。

佐々成政の正室の慈光院(父は村井貞勝)。
成政の死を悼まれた後陽成天皇のご親筆が残されている。

 なき人のかたみの雲やしくるらむ 夕の雨に色はみえねと
成政の正室・慈光院
 

狩野孝信室養秀院

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月26日(金)22時41分56秒
  狩野孝信
狩野永徳(信長、秀吉の絵師・法印)の次男。
たかのぶ=孝信,うこんしょうげん=右近将監,さいしょう=宰相
幕府御用絵師としてよく知られている狩野探幽(かのう・たんゆう)は、
孝信の長男です。

妻は信長の家臣佐々成政の姪娘(古画備考)は誤りであり佐久間信盛の娘
佐久間信盛ー女子佐々氏妻 鷹司系へ 佐久間信盛ー女子狩野孝信妻
http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/newpage36.htm
印譜http://www.ia.inf.shizuoka.ac.jp/~takamatsu/honchogain-22.htm
佐々成清に嫁いだ佐久間信盛の女(正勝の妹)

孝信の夫人・養秀院 探幽の母は養秀院と言ふその母は岳星院と言ふ、
この女が始め佐々成政の兄佐々清蔵(成政の兄政次の子)に嫁ぎ 、
名を佐々清蔵(成政の兄政次の子)と言ふ、姉は隋泉院(松原直元室)である。
隋泉院との
間に五郎四郎重勝がいる、その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした。
『福智院家系図』には記載がなく。絵師狩野永徳の次男、
狩野孝信に嫁ぐ。孝信との間に守信、尚信、安信、他三女を産む。
探幽守信は幕府の御用絵師として狩野派の全盛を築いた。
成政の姪娘養秀院を娶る。絵師狩野永徳の次男。慶長十三年兄光信の死後
、狩野派の中心として活躍した。現存する絵に「後陽成天皇像」、
「賢聖障子」の一部などがある。

『探幽筆 三拾六哥仙』
http://www.nijl.ac.jp/~t.ito/HTML/R3.3.1_MJ08kasen.html
『探幽筆 三拾六哥仙』の復元
http://www.nijl.ac.jp/~t.ito/HTML/R3.3_Kasene.html
 

平氏の祭祀

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月25日(木)08時09分11秒
  日本のすべての神々の恩恵で、日本人は祭りという祭祀で、生きる楽しみ
の支えとなっていますが、
この祭祀さえ、しきたりも、はぶいて司無き祭りになってしまいました。
江戸の中期に、なると和歌山の徳川吉宗により、司は必要としなくなった
そうです。
ただ祭りで楽しむになってしまい、次第に祭りが王から離れて行き、幕府
主催の天覧になって、孝明天皇以降この天覧とかかわっていきました。
天王の祭祀に始まった日本の祭祀が天皇の祭祀にかわって、いたのです。
最後まで残ったのが、相撲で日本の祭祀はここが出発点でした。
それが、明治天皇には、最後の歴史の証明すまい祭祀が邪魔になり、以後
熊本の吉田司家は、難問で相撲界から除外されてしまい、日本そのものが
消滅していた。
日本の名の始まりは神々の祭祀で日ノ本となっていたのは初代神武天皇か
らで以来、天皇の後代により、停止した宮廷の神事は、あまり記録には、
記されていないようです。
何故行われなかったか、が天王と祭祀が神々なので、役目として中国から
倭国に移って来たのが、引き継がれていたのが、王の祭祀です。
王と天王はかかわりが、無い明かしがここに出ています。
つまり宮廷でも、天王が居ないと出来なかったのです、なので
宮廷でも停止されていたので、日本の祭りの原点天王と祭祀が、
行われていなかった。
この停止が意味するものとは、天王から天皇に変わった事で祭祀
が執り行われなかったのです。
わが国日本では宮廷の祭祀が天皇の子孫達の源武士との縁戚によ
り、後の清和天皇と、文徳天皇側のほうで祭祀で相撲を取らせ勝った
方が文徳天皇の後継になる、約束(すまいの語源)で清和天皇側が
勝ったので、ここに源氏の天皇が始まります。
時は移り、天皇は桓武からの平氏に、戻されてい。
これは正統なる日本の祭祀は桓武天皇一族でないと、祭祀が出来ない
法則が、日本の祭祀の原点です。
源氏と平氏の戦いが始まり平氏が、天皇になりますが平清盛は名も無
い庶民の子でしたので、正統な天皇の血が、必要だった。
それが平清盛が傲慢な為に源氏の撲滅が無くては、天皇との祭祀は、
出来ないので源平合戦となります。
源氏も負けてはいませんでした、平氏の平清盛では正統な祭祀が出来
ない事、耳にしてこの事を知っていた武士が、後白河天皇に奏上して
ここに、平清盛と孫の高倉天皇の子は、海に投じて幕となります。

ここに残る高倉院の貴族の坊門家から室の男、後鳥羽院に宣祖される。
ここから、後鳥羽院の祭祀が回復されました。
正統だからできる祭祀の法則はここにある。
力を得た源氏源に対し平氏の北条はあまり良い感情は抱いていなかった。
それが、源頼朝無き後後鳥羽院の母方坊門家の女が源頼朝の子になり、
その鎌倉将軍の後継に決まって、後鳥羽院の子頼任親王が源氏の後継に
なくはずが、平氏北条時政と政子により、覆されてしまい、天王の後継
は承久の変で、武士の源の女が後鳥羽院の妾になって、生まれた男順徳
天皇を天皇後継としました。
ここに宮廷の神事が武士でもとはやされたのが、現在の祭りの始まり。
ここで正統天王の継承は行われなかったか、?
いえ、そこは平氏北条時政は天王後裔清和源氏佐々木信実に娘を嫁がせ
て、男子正統系に平氏の血を入れます。
平氏北条はすかさず、後鳥羽院に対し源氏将軍になられると、困るのか
承久の変で、佐々木信実をもって、佐々木信実父後鳥羽院側近盛綱と
兄弟争いが勃発し、後鳥羽院側は破れます。
この後佐々木信実女が頼任親王室に入り、生まれた男が東寺長者道乗。
その子孫達が児島高徳、児島宮先祖です。
天皇は後鳥羽院の源氏の血の順徳と土御門天皇になるが、二人とも
追放になります。
ここからが日本の祭祀は平氏の頼任親王へとなり、縁戚から司職が
決められ、江戸中期まで続いていたが、その役職は以後途絶えた。
 

「夜須礼」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月24日(水)20時23分22秒
  久寿1(1154)年4月
紫野今宮社で「夜須礼」と号した疫病除けの舞踊が行われた(やすらい祭
の創始)。

http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/bunka_nenpyo.html

 

談話室でおねがいします

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月19日(金)09時00分39秒
  児玉さんへ、書き込みはありがたいのですが、
談話室でおねがいします。
http://jpdo.com/cc03/76/joyful.cgi
ここは研究発表の場なので、とりあえずはそちらに移しておきます。
 

皇統は必ずしも天皇ではない

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2006年 5月19日(金)08時53分42秒
  君主(天子 即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲が皇統
皇統は必ずしも天皇ではない
吾が国では、天皇は継続しているが、それが必ずしも天皇とはなら
ない。
この意味が判らないのが、万家一世と云われる男子継承問題、で
ある。さかんに、天皇は男子が継承するものだと、いきごんでいる。
現大室虎吉天皇子孫達も、さかんに万家一世と託しまくるが、これは
皇統とは無関係で、ここには秘められた、甚が存在していない為である。
これは無駄な野望の易姓革命である。
明治革命で孝明天皇は暗殺、幕府将軍家茂も毒殺されるが、共に
どちらも、養子に入っていたが、天皇譲位にのめり込んだので、
皇統側から見れば、危険とされていたのであろう。
時は少し前に戻り、薩摩の島津家でも斉彬公が久光の母民間左官の
娘が斉彬の父の妾になっていて、斉彬公が邪魔になり、自分の子に
継がせる為に久光の母おゆら
は毒殺したと、云う。
ここに島津家は民間の血となり、同調した家臣と右翼が手を組み、長州
と佐賀藩士らは、行動に移した。ここに佐賀の乱が起こる。
日本の断絶の危機に遭遇した時、民間と下級志士の幕府に対する反抗す
る者が、右翼と手を組んで、この機会に転覆したのが、新明治天皇であ
るとされている。

天皇とは名ばかりの、大室虎吉天皇の易姓革命改革であった。
ここに易姓革命の教育勅語と万家一世が決められた。
ここに現代の国の低下が原因となって、天皇継承など何の価値も
存在しない事になる。

易姓革命 えきせいかくめい中国
易姓革命とは,武力による王朝交替をさすようである。
天命を革(あらた)める革命のこと君主を害して成り立つ。
 

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