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今木範俊
(岩松)時兼新田氏系図
『新田岩松古系図』では大館家氏の子供、貞氏から始まっているが、ここでは『尊卑分脈』、『系図纂要』に従い、政義の子供宗貞からとした。
政義__政氏
| (大館)
|_家氏____宗氏
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|_信氏 |_貞寂
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|_助義 |(堀口)
| |_貞氏
|_小河僧正|
|(綿打)
|_為氏
(脇屋)義助__義治___義則(注8)
義治_義久__神次郎
脇屋)義助ー義冬ー義隆ー鶴寿丸
弟の脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意したと伝えられる。
浅田晃彦氏『児島高徳と新田一族』。『宮下氏過去帳』に記されているという。
女子
名は一説に徳子 とされるが、後世になって高徳から1字をとってつけられた可能性もある。脇屋義治の妻になり義冬を生んだとか(ただし、義冬を義治の弟とする系図もある)、上野国 の宮下氏に嫁いだなどの系図が残るが正確なところは不明。
太郎高秀
一説に元徳 元年(1329年)に誕生。備前国 へ帰る。ここから後の戦国大名 ・宇喜多氏 が出たとされるが、宇喜多氏の出自については別の説もある為、一概に子孫であるとは言えない。
義央は義貞と越前河合庄の豪族嶋田勘右衛門の娘の子で嶋田家の祖となり、義則は脇屋義治の嫡子である、とする。
事実関係は不明。
『系図纂要』、『長楽寺系図』、『新田岩松古系図』、『新田横瀬由良正系図』では義宗の子とする。
注10
『系図纂要』、『長楽寺系図』、『新田岩松古系図』では、岩松満国の養子となり、満純と名乗って岩松家を継いだとする。
1322年に一族の岩松政経と大館宗氏が用水争いを起こした際、幕府に裁定を持ち込んでいる。
一族である岩松満純(岩松満国と義宗の娘の間の子)も義宗の子と自称して、岩松氏の養子になったとされた。しかし、江戸時代に新田一族と称する徳川氏により、表面上は岩松氏を新田宗家に立て交代寄合の格式を与えながら、新田氏を姓とすることは許可せず、禄高もわずか100石加増しただけで、交代寄合としては最低レベルの120石を与えただけであった。江戸時代、岩松氏は交代寄合に準ずる家(交代寄合衆四州に準ずる家)として細々と続いた。維新後に、岩松氏は明治政府の計らいで、義貞の子孫として認定され、新田氏に復姓し、華族として男爵に叙されている。
岩松氏との関係は徳川註罰にみられる。
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