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児島宮から見えた神の神殿?
児島宮とは?から始めよ。
児島宮の生い立ちは、平安末期の後白河上皇の、皇太子、後鳥羽院の子の頼任親王が、源実朝の後継に、選ばれた、が、
源実朝の室も、頼任親王母七条院坊門家から、とついでてた。
この他、頼朝の子と言われた、豊後国大友能直の養子に迎えられた、源親秀の後妻も、後鳥羽院の縁戚、
七条院坊門家事京都の石清水八幡家から、迎え、薬師丸を生んでいる。
この薬師丸は、蒙古合戦に参加していて、
豊後守護大友頼泰の手勢(「豊後国守護大友兵庫頭薬師丸頼泰元手軍兵」)。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html
「頼任親王母七条院坊門家」
児島宮家の先は、備後の宮氏(児島宮頼任親王に始まる)之より宮家の始まり也。 この流れを宮氏という也。
佐々木盛綱子加地信実であるこの、
加地信実の娘が嫁入りしたのが、児島高徳の祖冷泉宮(頼任親王児島宮)その人である。
加地信実の妻は、北条時政の娘で、同じく北条時政の娘が河野家にも女が嫁いでいた。
児島高徳は「太平記」にこう記していて「河野と児島は姻戚にて」とは之なり。
頼任親王児島宮と加地信実の女との間に生まれたのが、
東寺長者道乗である。
この東寺長者道乗の男が頼宴僧正で、備後国児島の尊滝院に住んでいた。
一方、
頼宴僧正の室について述べよう。
頼宴僧正の室は児島範長の女といい、
この児島範長は、本当は佐々木であるが、 【今木】高長──範長
紀家弘の女の養子となっていました。
この紀家弘こそ、石清水八幡家で、名を善法寺通清(紀家弘)という。
この善法寺通清の女は、
足利尊氏の2代として長男義詮
が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=yasumati&dd=22&re=322
紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系
季家─家長─定心─【和田】季房─家勝─紀家弘(善法寺通清の娘紀良子が足利三代
将軍義満を生んだ。
よしあきら、元徳2年6月18日(1330年7月4日) - 正平22年/貞治6年12月7日(
1367年12月28日))は、室町幕府2代将軍。
児島宮の生い立ちは、冷泉宮(頼任親王児島宮)祖とし、代々備後国児島の尊滝院に住んでいた。
ここに頼任親王は、正統となり、武士の女の子順徳天皇と土御門天皇が、北条家の圧力で、天皇に付けられたことから、
備後国児島の尊滝院に、奈良熊野本宮を、創建し遷座せしめた。
これにより、代々女方の、正統嫡として、宮家となる。
天皇家と、代々女方の、正統嫡、は、武家だけに、受け継がれるようになった。
戦国時代の天皇家は、正統嫡ではなかったのである。
これまで言われたように、南朝や北朝は、正統嫡天皇家とはならない。児島宮歴研会
戦国時代の初めに、児島高徳が、醐醍醐天皇の、養子に入っていたのは、
醐醍醐天皇祖亀山上皇の遺言により、高丸こと児島高徳幼少のおり、亀山上皇女が養育していた。これは正統嫡天皇後継にする為であった。
が、それも醐醍醐天皇のわがままに、より、戦国時代へ突入した。
これより醐醍醐天皇後胤、の南朝や北朝に引き継がれた。
この時は、神殿は消えうせていて、正統嫡天子の祭礼は、行われる事はなかった。
正統嫡天子の祭礼は、児島高徳後胤、佐久間信盛の女が、鷹司信房の室となり、ここに古来の、祭礼が、
佐久間信盛男の甚九郎正勝により、相撲が執り行われるようになった。
ここに神々の夜明けが、再開されたのである。
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