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公家 | 藤原北家 | 坊門家

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 5月15日(金)18時09分54秒
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  坊門家(ぼうもんけ)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した公家。坊門を名乗る家系はいくつか存在するが、藤原北家の関白藤原道隆の子孫
道隆の子の伊周と隆家は叔父道長と対立し、花山法皇に矢を射かけた罪で左遷された(長徳の変)。後に罪を許され、隆家の子の経輔は正二位権大納言まで昇進したが、道隆の弟の道長の子孫が藤原北家の嫡流となり摂政・関白を世襲していったため、道隆の子孫はしばらく不遇の時代を送ることになる。

平安時代の後期になると、経輔の孫の経忠は妻の実子が鳥羽天皇の乳母であったことから院近臣として白河法皇および鳥羽法皇に仕え従二位中納言まで昇進した。経忠の孫の信隆は生前は正三位非参議止まりであったが、安徳天皇が平家一門とともに都落ちすると、信隆の娘で高倉天皇の典侍となっていた殖子(七条院)所生の尊成親王(後鳥羽天皇)が皇位を継承し、後鳥羽天皇の外祖父にあたる信隆は従一位左大臣を追贈された。坊門を家号としたのは信隆の子の信清と隆清の代からとされるが、実質的には信隆が坊門家の祖であると言える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%AE%B6出典: フリー百科事典

信隆の子の信清は後鳥羽天皇の叔父にあたり、また信清の娘は鎌倉幕府将軍源実朝の正室となったことから、坊門家は皇室・幕府いずれに対しても大きな影響力を持つようになった。

しかし、建保4年(1216年)に信清が薨去して以降、建保7年(1219年)には将軍実朝が暗殺され、承久3年(1221年)の承久の変においては信清の子の忠信は後鳥羽上皇ら討幕勢力に与したため流罪に処せられた。当時、忠信は権大納言の地位にあり、討幕計画に関与した公家の中では最も官位が高かった。

南北朝時代になると、信清の子孫の信行が北朝において公卿に列し、隆清の子孫の清忠は後醍醐天皇の側近となり公卿に列した。しかしいずれの系統も断絶したために後世に家名を伝えることはできなかった。

坊門忠信は坊門家庶流の信成を養子としたが、信成の子孫からは水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の5家が堂上家に列した
庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対し庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。庶子家ともいう。

庶家という場合、その多くは宗家と同姓を用いることを避け、或いは禁じられその多くが別姓を称した家柄が多いという点にある。
多くの武家では宗家と主従関係を結ばれた結果、宗家の一門としての待遇を離れ主家と祖先を同じくする家臣として位置づけられていった。
支流、分家水無瀬家(羽林家)家格は羽林家。16世紀末に「駒の銘は水無瀬公の筆をもって宝とす」と賞賛され、書家として知られた水無瀬家4代の間、駒銘を書いた。特に水無瀬兼成(かねなり)とその孫の兼俊(かねとし)がよく知られる。大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮にその作品が残されている。兼成の駒製作記録「将棊(しょうぎ)馬日記」から、その作と特定された、注文主が道休(足利義昭の出家した後の名)の象牙の駒などが有名である。

七条家(しちじょうけ)は、日本の氏族(公家)。藤原北家道隆流水無瀬家の庶流。家格は羽林家。家紋は菊あるいは五七の桐(水無瀬家と同じ)。

江戸時代初期に正二位権中納言水無瀬氏成の子隆脩(従四位上左近衛権中将七条隆脩)が水無瀬家から分家して七条家を創設したことに始まる。江戸時代の家禄は200石。羽林家だが、歴代当主の官位は七条信元(1792年−1869年)が従二位参議になったのが最高だった。
歴代当主

「七条家」
七条隆脩
七条隆豊
七条匡信
七条信方(水無瀬兼豊の子)
七条信全
七条隆房(町尻説久の子)
七条隆充
七条成信(町尻説望の子)
七条隆則(水無瀬忠成の子)
七条信敬(広橋伊光の子)
七条信元(樋口宣康の子)

「町尻家」(まちじりけ)家紋は五七の桐。
江戸時代初期に権中納言水無瀬兼俊の次男大蔵大輔町尻具英を始祖とする
家禄は蔵米30石3人扶持。その後、後水尾天皇の意向により、具英の子兼豊(水無瀬兼豊)が本家の水無瀬家を継ぎ、町尻家は養子の町尻兼量が相続した。明治維新後、子爵。
町尻具英
町尻兼量
町尻兼重
町尻説久
町尻説望
町尻量原(吉田家からの養子)
町尻量聡
町尻量輔
町尻量衡(豊岡家からの養子)

江戸時代に水無瀬兼俊の子・兼里によって設立された。極官は近衛中将。江戸時代中期の桜井氏福が竹内式部に師事していたために宝暦事件に連座した。この時家名断絶の危機に陥るが、実弟の供敦を養子として家督を継ぐ事が許された。

「桜井家」(さくらいけ)は、羽林家の家格
明治維新に氏福の罪が許されて正四位が追贈され、1884年7月8日桜井供義に子爵の位を授けられた。明治維新後、子爵。

「山井家」(やまのいけ)公家(羽林家)
家格は羽林家。家紋は菊。家業は鞍の製造。
江戸時代中期に縫殿助桜井兼里(桜井家の祖)の庶子兼仍(治部卿山井兼仍)が桜井家から分家して山井家を創設したことに始まる新家。江戸時代の家禄は蔵米30石。羽林家だったが、歴代当主の官位は山井氏暉(1821年 - 1894年)が従二位に至ったのが最高だった。明治時代に華族に列し、明治17年(1884年)に氏暉が子爵になった。

山井兼仍
山井兼前
山井氏栄
山井兼敦
山井仍孝
山井氏興
山井氏暉

京都府京都市下京区坊門中之町の地図情報及び航空写真を提供しております。
坊門中之町周辺のよく見られている施設. リーガロイヤルホテル京都. 西本願寺
平安京の区画で、二条大路以南の各坊を東西に貫通する3本の小路のうち中央のもの。
3 囲碁で、本因坊の門下。

五条
平安京の条坊の一。また、東西に通じる大路の名。五条大路。 ⇒五条通り
五条通り
京都市中央部を東西に通じる道路。東山区西大谷門前から天神川に至る。平安京では六条坊門大路の位置...

八条院坊門局 | 坊門信清 | 坊門隆清 | 坊門親信 | 坊門清忠 | 坊門忠信 | 坊門院 | 坊門殿 | 坊門局 | 坊門資世
八条院坊門局とは
藤原俊成の娘、定家の異母姉。母は藤原顕良の娘。応保・長寛年間(1161〜65)藤原成親と結婚、四子を.....
全文を表示する
藤原俊成の娘、定家の異母姉。母は藤原顕良の娘。応保・長寛年間(1161〜65)藤原成親と結婚、四子を産む。『明月記』には「三位公佐等之母」とある。宮中の故実に明るく廉直な人柄であったという。

「坊門局」 ぼうもんのつぼね

平安時代後期の女官。
後白河天皇につかえ、仁平(にんびょう)2年(1152)円恵(えんえ)法親王を、のち定恵(じょうえ)法親王、静恵(じょうえ)法親王、僧恒恵(ごうえ)を生んだという。

「坊門信清」
鎌倉前期の公卿。内大臣正二位。京都の太秦に山荘があったことから太秦内府とも号した。修理大夫(贈左大臣)信隆と大蔵卿藤原通基の娘との子。姉の七条院とその所生の後鳥羽天皇の側近。後鳥羽の外戚として権勢を振るい,家柄が低いにもかかわらず建暦1(1211)年に内大臣に任じられた。子の忠信,輔平ら一門は後鳥羽の近臣として隆盛を極め,娘には後鳥羽の妾となって道助法親王,頼仁親王らを生んだ 西御方(坊門局)や,鎌倉幕府の将軍源実朝の妻となった西八条殿がおり,その関係で信清は鎌倉幕府と朝廷との交渉役を務めた。
(秋山喜代子)

母で、姉の坊門局も後鳥羽上皇の子を3人生みます。
坊門家は、. 藤原
摂関家をもしのぐ全盛期にありました。

「西八条」は1219年、26歳のときに夫の
実朝が鶴岡八幡宮社殿で殺害され. たあと京都に帰り、大通寺を創建し、実朝の冥福を祈る
1221年「承久の乱」によって後鳥羽上皇の側近であった兄・姉たちは流罪または消息不明となったあと、さらに半世紀以上を生き抜いた西八条院はまさに
「文永の役」がはじまろうとする同年9月に81歳でその生涯を終えました。
http://homepage2.nifty.com/mazzn/604605.htm
八条坊門町(京都府京都市南区八条坊門町)
http://www.wodge.biz/s/travel/%B5%FE%C5%D4%C9%DC/%B5%FE%C5%D4%BB%D4%C6%EE%B6%E8/%C8%AC%BE%F2%CB%B7%CC%E7%C4%AE/
坊門清忠 - 正中 (元号), 湊川の戦い, 非参議, 弁官, 延元 - VisWiki. ... 坊門 清忠
(ぼうもん きよただ、生年不詳 - 延元3年/暦応元年3月21日(1338年4月11日))は、
南北朝時代の公家。正式には藤原清忠。通称は坊門宰相(ぼうもんのさいしょう)。

平安末期には、平清盛の「西八条第」(にしはちじょうてい)が南北は八条大路と八条坊門小路、東西は大宮大路と坊城小路の方6町に造営され、また同時期に八条女院御所も八条大路を中心に造営されていました。しかし、西八条第は寿永2年(1183)7月25日に平氏一門自らの手で火を放たれ焼失しました。
 以後、鎌倉・南北朝期の東寺百合文書にも「梅小路」・「梅小路町」の記述があり、室町時代には掃部寮(かもんのりょう。宮内省の令外官)領が存在したと推察されています。
http://www.kyoto-ga.jp/new/umekouji/umekouji_history.html

坊門家は中関白道隆ー隆家の末裔で、七条修理大夫坊門信隆の子が内大臣信清、左兵衛督
隆清、および後鳥羽天皇母の殖子で、信清の子が右近衛中将



藤原兼家
 ┣━━┳━━┳━━━━━━━┳━━┳━━┓
道隆 道綱 道兼      道長 超子 詮子
 ┣━━┳━━┳━━┓    ↓
道頼 伊周 隆家 定子 (摂関家嫡流)
    ┃  ┣━━┓
   道雅 良頼 経輔
          ┣━━┓
         師家 師信
             ┃
            経忠
          ┏━━┫
         忠能 信輔
 ┏━━━━┳━━┳━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
坊門信隆1 信保 信行                                          親信(水無瀬家祖)
 ┣━━┳━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓                       ┏━━┫
信定 信清2 親輔              隆清 殖子(高倉天皇典侍、後鳥羽天皇・守貞親王生母) 定輔 親兼
    ┣━━┳━━━┓           ┃                             ┃
   忠信3 忠清 西八条禅尼(源実朝正室) 満親                            信成(忠信養子)
 ┏━━┫                  ┃                             ↓
基信 長信4                 基輔                  (水無瀬・七条・町尻・桜井・山井の各家へ)
 ┃  ┃                  ┃
信宗 信家5                 俊輔
 ┃  ┃            ┏━━┳━━┫
信良7 信顕6          輔能 俊親 清忠
 ┃                  ┏━━┫
信行8                 重隆 親忠
 ┃
信藤9
 ┃
信守10


「吾妻鏡」に記されている実朝の言い分は次の通りです。
「源氏の正統此の時に縮まりおわんぬ、子孫これを敢えてこれを相継ぐべからず、然からば飽くまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」
正月には、官職昇進に対する神前への報告という
祝賀式典に臨んだ時、甥の公暁に殺害されてしまい、不運な人生の幕を閉じました。
1192(建久三年)父源頼朝、母北条政子、幼名千幡1203(建仁三年)後鳥羽院より「実朝」名を授かる。元服。有力ご家人が次々と滅ぼされ、頼家が伊豆修善寺に幽閉される。
1204(元久元年)坊門信清女と結婚する。 頼家(23歳)修善寺で殺害される。
1213(建保元年)和田義盛挙兵、一族滅亡。
自撰家集「金槐和歌集」を編む。
藤原定家より万葉集を送られる。
1218(建保六年)六月任大将拝賀神拝のため鶴ヶ岡八幡宮参詣、八月鶴ヶ岡放生会に参宮、十二月大臣拝賀のための調度を後鳥羽院から下賜される。
1219(建保七年)鶴ヶ岡八幡宮にて、右大臣拝賀式典で、頼家息公暁に殺害される。
建保七年一月二十三日には、実朝の大臣拝賀に随従のために、都から次の五人の公卿・殿上人が
鎌倉に下着しました。
 権大納言・坊門忠信(1187生れで、実朝より5歳年上、31歳)は妹が実朝の御台所で、実朝の義兄に当たる人物です。
 坊門家は中関白道隆ー隆家の末裔で、七条修理大夫坊門信隆の子が内大臣信清、左兵衛督隆清、および
後鳥羽天皇母の殖子で、信清の子が右近衛中将忠信、後鳥羽天皇後宮坊門局、源実朝室八条禅尼となり、実朝にとっては義父の妹が後鳥羽院の母親という親戚筋に当たります。
一月二十四日には、坊門忠信が幕府を来訪し、妹の実朝室に対面しています。
 拝賀式典の二十七日は夜に入って二尺余りの積雪をみ、実朝は午後六時頃鶴ヶ岡八幡宮へ向かいます。
 参列が楼門をくぐったところで北条義時は体調が良くないと、源仲章を代役に立てて、列を離れます。これが後年
実朝暗殺の実行者か、加担者と疑われることになります。神拝を終えて、夜陰に退出する石段を下りるとき、銀杏の大樹の脇に潜んでいた八幡宮別当で甥の公暁に「父頼家の仇」と叫んで襲撃され、殺害されます。
扇が谷の寿福寺に供養塔の石造五輪塔が立てられています。
北条政子は長男の頼家、次男の実朝、そして娘二人(大姫、乙姫)をもうけたと記されていますが、男子は全て
身内の政権争いの犠牲になって殺害されると言う悲惨な目にあっています。

1204年・48歳 源頼家が、北条時政に暗殺される。
 1205年・49歳 北条時政の源実朝暗殺計画を知り、源実朝を救出。北条政子弟北条義時を執権にする。
 1219年・63歳 源実朝が公暁(源頼家の子)に殺害される。源氏の直系が絶え、 京都からの藤原頼経を4代将軍にする。尼将軍として、鎌倉幕府の政治を動かす。
1221年・65歳 承久の乱で、鎌倉幕府が勝利する。後鳥羽上皇を隠岐へ配流にする。
http://www51.tok2.com/home/ncnycy/geohome240-93-4.html

本能寺跡は四条坊門通り(現在の蛸薬師通り)南側に沿った堀の北側にあったとされる。
 
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