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水野忠政の子にあらず信元

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 5月 6日(水)20時39分43秒
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  水野忠政の子にあらず信元の本当の父とは誰なのか?

水野忠政父:水野清忠である。
「寛政重修諸家譜」(以下「寛政譜」と略す)に現れる「近守」を忠政の子から除外し、信元を長男としている。
信元を養子に迎えいれたという事になろう。
戦国時代には良くある事。
実子は、はずしていた、のである事が知れる。

だとすれば?水野 忠政(みずの ただまさ)は、戦国時代の武将。幼名は牛息丸、通称「藤七郎」で、初め「妙茂(ただもと)」を名乗ったとされる他、「右衛門大夫」および「下野守」を称した。

妻および子供たちの生母について [編集]
「寛政譜」がその出自を示すのは次の2名である。

松平昌安(信貞)の娘 - 「信元」「松平家広室」の母。「死別」ではなく「離婚」となっている。
大河内元綱の養女 - 「於富の方」(華陽院)として知られる。「継室」とされている。「忠守」「於大の方」「近信」「忠分」「忠重」の母とする。しかし、伝えられている松平清康(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる「忠分」「忠重」の母ではありえない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%94%BF#.E5.A6.BB.E3.81.8A.E3.82.88.E3.81.B3.E5.AD.90.E4.BE.9B.E3.81.9F.E3.81.A1.E3.81.AE.E7.94.9F.E6.AF.8 D.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6
「寛永系図」も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。但し「清忠」の没年の記載がない。 「士林泝」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。

本樹院殿栄岩宗盛大姉 - 「水野和泉守殿之母」。没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述(柴屋軒宗長「宇津山記」)から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。
以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。

「寛永諸家系図伝」(以下「寛永系図」)では、水野氏を称してのち、貞守に至るまでを「この間数代中絶」としていた。「寛政譜」ではその5代の名を記しているが、貞守が緒川の地を支配し、また小川氏の末裔を称するに至った経緯は明らかではない。 加えて、小河水野家初代「貞守」から忠政らに至る4世代の関係を示す系譜も混乱している。

ここには、信元の出生ははっきりしていないのが知れる。

東京国立博物館 平常展示 部屋誓紙, 安土桃山時代・文禄2年(1593), 2006/10/3〜 2006/11/5. 書状, 佐久間信盛筆, 室町時代・元亀4年(1573),
 
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