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夜須の鎌倉時代の資料は残念ながら残されていません。
これは児島宮歴研会による、報告です。
独自に調査によると、夜須町の曾根田と三牟田に位置する遺蹟から、越州窯や泉州窯の磁器の出土品から、読み取ったのが、関る人物から、の関係が伺えます。
これは日本の古代歴史と深いつながりのある、中国の雲南地方との関係にありました。
中国の雲南地方との関係とは、広州は越国とされていたところでして、この越国の王が、後漢紀元前111年前に、この越国から渡海して移り住んだ処がこの夜須でした。以後天皇と中国との関係が、続いていました。
夜須から奈良に都を遷宮させたのは熊野という処でした。
やがて時は移り、平安の頃桓武天皇は二人の僧を派遣しました、最澄と空海です。
この時越国は広州に変わり、こことの関係は最澄と空海が、行った処でした。
これはつながりがあったのは、いうまでもありません。
紀元前に中国から始まったお茶の歴史。日本には、800年代に中国に留学した僧侶たちが伝えたとされます。
紀元前の古代、中国で発見されたといわれるお茶。漢の時代には、すでにお茶はよく知られていたようです。
遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)、永忠(えいちゅう)などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが、わが国のお茶の始まりとされています。
平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。
この後、時代は、平安末期〜鎌倉となりました。
この時又派遣されたのが、僧の栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する
鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に本書を献上したと『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。
日本一の茶処となったルーツは 中国・雲南省が発祥の地とされる
ここにあるように、茶とともに、雲南省が発祥の越州窯や泉州窯の磁器が、この夜須にも持ち込まれて、いた事が、児島宮歴研会による、報告で判りました。
この夜須に住んでいたのは、推測からすれば、源の名が見られます。
この人物と親しい人物とは紀氏を於いて他には見当たりません。
それは栄西一族になる、紀李重(平山李重)子息で栄西もその一人です。
これは兄弟にあたる、紀李重子息平山小太郎重村の館と見受けられる。
或は、住いは朝日とあることから、役所かも知れません。
これが、雲南省が発祥の越州窯や泉州窯の磁器発見につながりました。
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