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耶麻国を他の観点から覗いてみよう。耶麻の語源は山(やま)とか(三角形)につながっている。
このやまを間違えると、すべてを無にする。
「史記」秦始皇本紀(BC219年)薺の人徐市ら言う、海中に三神山あり、蓬莱、方丈、瀛洲と曰い、僊人これに居る。童男女と之を求むることを得ん。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。倭人の風俗を述べたなかに、「貴人三年殯於外、庶人卜日而葬」との記述があり。二回葬る習慣がみえる。「建武中元2年(西暦57年)倭奴国、秦貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武賜うに印綬を以ってす。」
卑弥呼に与えられた金印「親魏倭王」の80年も前「奴」というのは筑紫野市一帯を指していて、その中心は峰遺蹟であろう。
金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮に与え、装討して帯方の大字に付し仮に授けさせる。」鬼神儀式の占い祠に儀式場が設けられる。
其処に生け贄むが捧げられた。
卑弥呼の名称卑弥呼国を分析する倭国大乱の西暦一四六年〜一八八年頃に見える。
壹與は臺(帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。
倭民族の木棺卑弥呼の眠る鬼神山には果たして甕棺か木棺か神魏倭王の印の発見が待たれる。
鬼神山には木棺がすでに一部調査で出土している。
新羅の都・慶州にある98号墳や金冠塚の棺材も、最近の調査でクスノキ製であることが判明している。
日本の前方後円墳もまた多くがクスノキを木棺に利用していた
韓半島の百済、新羅、伽耶の国々と日本倭国の関係が明らかとなった。
出土したクスノキ製の木棺は、古代韓半島と日本列島の交流を解き明かす吉武高木遺跡三号木棺墓、末盧(まつろ)国の宇木汲田(うきくんでん)遺跡一二号甕棺墓、伊都(いと)国の三雲南小路遺跡一号・二号墓、同井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡甕棺墓、同平原(ひらばる)遺跡一号墓、奴国の須玖岡本(すくおかもと)遺跡王墓などがあり、
それぞれの国の王が葬られた、がこれらの共存している所は、倭民族の木棺であった。
倭国王に相応した副葬品(前一〇八年)以後甕棺墓、木棺墓(もっかんぼ)、土壙墓(どこうぼ)造られていました。
「武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」「旧百余国」が「三十国ばかり」になる。楽浪郡設置(前一〇八年)以後一〇八年頃から卑弥呼の全盛期になる。
加耶墓制の葬送、「木棺」(もしくは「木槨」)が存在した。
倭人系木棺は、ほとんどがコウヤマキである古代の日韓交流について、くすのき製の木棺についての記事を見つけました伽耶の一国、比自国から出土したクスノキ製の木棺は、古代韓半島と日本列島の交流を解き明かす大きな鍵となる。
くすのきは丸き船に使うのに優れているとされています。
慶南7号墳で発見 日本にみられるクスノキ製木棺 一昨年、慶尚南道昌寧郡の松 洞古墳群(7号墳)からクスノキ製の木棺が発見 舟形木棺百済の武寧王陵も、王と王妃の棺は日本からもたらされたコウヤマキであることが後に明らかにされた。
弥生時代前期末〜後期初頭の甕棺墓(かめかんぼ)、木棺墓(もっかんぼ)は10以上の群を為し、総数1200基 吉武高木遺跡 。
峰遺蹟に連携している、夜須の遺蹟に鬼神山が現存する。
この由緒は古代からの呼び名であることは、鬼神と呼んだ事で知られる卑弥呼の祭祀での、起こりである儀式に由来する。
ここが卑弥呼の墳墓であろう。以前の調査時木棺が出土し倭人とのつながりが、判明している。
墓の位置からすれば概ねその近辺に卑弥呼の拠点があるはず、その位地関係は後の天孫降臨の後に始まる稲作と連携してもいいであろう。
火の無いところに煙はたたないのように、或は川の水の流れのように、ごく自然に考えて間違いはおこらないであろう。
峰遺蹟に連携している、夜須の遺蹟には甕棺が埋葬されたのが、ほとんどであるようだ。
甕棺といえば倭人の儀式を彷彿できる。
ここがおそらく、倭王の拠点なのであろう、卑弥呼の時男王とあるは、これら倭王の存在が、連想する。
卑弥呼は儀式を行う占い師で、生け贄を捧げて、吉凶を占う巫女であった。
これは原始儀式に例えられるもので、あるから、まだ耶麻儀礼ではなかった。
墳墓の位置からすれば、この近辺に居いを築いていたのであろう。
まだ断定は出来ないが、倭国民の卑弥呼は木棺か甕棺に納められているのであろう。
それは倭の儀式での埋葬で、耶麻式儀礼ではないはず。
倭人の王達は小さい国での統治で、30国ばかりと倭人伝は記す。
この事から、当時は伊都に郡使を常駐させていたとあり、卑弥呼の国とは距離が離れていたのであろう。
当時の倭王は筑紫国に定められていて、峰遺蹟はその時期の出土状態からも、璧が同時に出土したことから、ここが倭王の拠点なのだろう。
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