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備後三郎高徳事付呉越軍事 S0407

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2008年 5月17日(土)17時31分45秒
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  備後三郎高徳事付呉越軍事 S0407
其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や/\とぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。天莫空勾践。時非無范蠡。御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、其時越王大に忿て宣けるは、「礼記に、父の讎には共に不戴天いへり、我已に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞むる所に非や。是を以兵を集る処に、汝三の不可を挙て我を留る事、其義一も道に不協。先兵の多少を数へて可致戦ば、越は誠に呉に難対。而れ共軍の勝負必しも不依勢多少、只依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易れり。是汝が皆知処也。今更に何ぞ越の小勢を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略の不足処の其一也。次に以時軍の勝負を計らば天下の人皆時を知れり。誰か軍に不勝。若春夏は陽の時にて罰を不行と云はゞ、殷の湯王の桀を討しも春也。周の武王の紂を討しも春也。されば、「天の時は不如地利に、地利は〔不〕如人和に」といへり。而るに汝今可行征罰時に非ずと我を諌むる、是汝が知慮の浅き処の二也。次に呉国に伍子胥が有ん程は、呉を亡す事不可叶と云はゞ、我遂に父祖の敵を討て恨を泉下に報ぜん事有べからず。只徒に伍子胥が死せん事を待たば死生有命又は老少前後す。伍子胥と我と何れをか先としる。此理を不弁我征罰を可止や。此汝が愚の三也。抑我多日に及で兵を召事呉国へも定て聞へぬらん。事遅怠して却て呉王に被寄なば悔とも不可有益。「先則制人後則被人制」といへり。事已に決せり且も不可止。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践自ら十万余騎の兵を率して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差是を聞て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎勢を率して、呉と越との境夫枡県と云所に馳向ひ、後に会稽山を当て、前に大河を隔て陣を取る。態と敵を計ん為に三万余騎を出して、十七万騎をば陣の後の山陰に深く隠してぞ置たりける。去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊■勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰■は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰■が前に平伏す。太宰■床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。去程に范蠡越の国に在て此事を聞に、恨骨髄に徹て難忍。哀何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共に謀を廻らして、会稽山の恥を雪めんと、肺肝を砕て思ければ、疲身替形、簀に魚を入て自ら是を荷ひ、魚を売商人の真似をして、呉国へぞ行たりける。姑蘇城の辺にやすらひて、勾践のをはする処を問ければ、或人委く教へ知せけり。范蠡嬉しく思て、彼獄の辺に行たりけれ共、禁門警固隙無りければ、一行の書を魚の腹の中に収て、獄の中へぞ擲入ける。勾践奇く覚して、魚の腹を開て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書たりける。筆の勢文章の体、まがふべくもなき范蠡が業ざ也。と見給ひければ、彼れ未だ憂世に存へて、為我肺肝を尽しけりと、其志の程哀にも又憑もしくも覚へけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし我身ながらの命も、却て惜くは思はれけれ。斯りける処に、呉王夫差俄に石淋と云病を受て、身心鎮に悩乱し、巫覡祈れ共無験、医師治すれ共不痊、露命已に危く見へ給ける処に、侘国より名医来て申けるは、「御病実に雖重医師の術及まじきに非ず。石淋の味を甞て、五味の様を知する人あらば、輒く可奉療治。」とぞ申ける。「さらば誰か此石淋を甞て其味をしらすべき」と問に、左右の近臣相顧て、是を甞る人更になし。勾践是を伝聞て泪を押へて宣く、「我会稽の囲に逢し時已に被罰べかりしを、今に命助置れて天下の赦を待事、偏に君王慈慧の厚恩也。我今是を以て不報其恩何の日をか期せん。」とて潛に石淋を取て是を甞て其味を医師に被知。医師味を聞て加療治、呉王の病忽に平癒してげり。呉王大に悦で、「人有心助我死、我何ぞ是を謝する心無らんや。」とて、越王を自楼出し奉るのみに非ず。剰越の国を返し与へて、「本国へ返り去べし。」とぞ被宣下ける。爰に呉王の臣伍子胥と申者、呉王を諌て申けるは、「「天与不取却て得其咎」云へり。此時越の地を不取勾践を返し被遣事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍可在近。」申けれ共呉王是を不聞給、遂に勾践を本国へぞ被返ける。越王已に車の轅を廻して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙其数を不知車前に飛来。勾践是を見給て、是は勇士を得て素懐を可達瑞相也。とて、車より下て是を拝し給ふ。角て越の国へ帰て住来故宮を見給へば、いつしか三年に荒はて、梟鳴松桂枝狐蔵蘭菊叢、無払人閑庭に落葉満て簫々たり。越王免死帰給ぬと聞へしかば、范蠡王子王■与を宮中へ入奉りぬ。越王の后に西施と云美人座けり。容色勝世嬋娟無類しかば、越王殊に寵愛甚しくして暫くも側を放れ給はざりき。越王捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給たりしが、越王帰給ふ由を聞給ひて則後宮に帰り参り玉ふ。年の三年を待わびて堪ぬ思に沈玉ける歎の程も呈れて、鬢疎かに膚消たる御形最わりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方も無りけり。公卿・大夫・文武百司、此彼より馳集りける間、軽軒馳紫陌塵冠珮鎗丹■月、堂上堂下如再開花。斯りける処に自呉国使者来れり。越王驚て以范蠡事の子細を問給ふに、使者答曰、「我君呉王大王好婬重色尋美人玉ふ事天下に普し。而れ共未だ如西施不見顔色。越王出会稽山囲時有一言約。早く彼西施を呉の後宮へ奉傅入、備后妃位。」使也。越王聞之玉て、「我呉王夫差が陣に降て、忘恥甞石淋助命事、全保国身を栄やかさんとには非ず、只西施に為結偕老契なりき。生前に一度別て死して後期再会、保万乗国何かせん。されば縦ひ呉越の会盟破れて二度我為呉成擒共、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡流涙申けるは、「誠に君展転の思を計るに、臣非不悲云へ共、若今西施を惜給はゞ、呉越の軍再び破て呉王又可発兵。去程ならば、越国を呉に被合のみに非ず、西施をも可奪、社稷をも可被傾。臣倩計るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮に入給ふ程ならば、呉王是に迷て失政事非所疑。国費へ民背ん時に及で、起兵被攻呉勝事を立処に可得つ。是子孫万歳に及で、夫人連理の御契可久道となるべし。」と、一度は泣一度は諌て尽理申ければ、越王折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿の角のつかの間も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼なき太子王■与をも不云知思置、ならはぬ旅に出玉へば、別を慕泪さへ暫しが程も止らで、袂の乾く隙もなし。越王は又是や限の別なる覧と堪ぬ思に臥沈て、其方の空を遥々と詠めやり玉へば、遅々たる暮山の雲いとゞ泪の雨となり、虚しき床に独ねて、夢にも責て逢見ばやと欹枕臥玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉ふもげに理りなり。彼西施と申は天下第一の美人也。妝成て一度笑ば百の媚君が眼を迷して、漸池上に無花歟と疑ふ。艷閉て僅に見れば千態人の心を蕩して忽に雲間に失月歟と奇しまる。されば一度入宮中君王の傍に侍しより、呉王の御心浮れて、夜は終夜ら婬楽をのみ嗜で、世の政をも不聞、昼は尽日遊宴をのみ事として、国の危をも不顧。金殿挿雲、四辺三百里が間、山河を枕の下に直下ても、西施の宴せし夢の中に興を催さん為なりき。輦路に無花春日は、麝臍を埋て履を熏し、行宮に無月夏の夜は、蛍火を集て燭に易ふ。婬乱重日更無止時しかば、上荒下廃るれ共、佞臣は阿て諌せず。呉王万事酔如忘。伍子胥見之呉王を諌て申けるは、「君不見殷紂王妲妃に迷て世を乱り、周の幽王褒■を愛して国を傾事を。君今西施を婬し給へる事過之。国の傾敗非遠に。願は君止之給へ。」と侵言顔諌申けれ共、呉王敢て不聞給。或時又呉王西施に為宴、召群臣南殿の花に酔を勧め給ける処に、伍子胥威儀を正しくして参たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階を登るとて、其裾を高くかゝげたる事恰如渉水時。其怪き故を問に、伍子胥答申けるは、「此姑蘇台越王の為に被亡、草深く露滋き地とならん事非遠。臣若其迄命あらば、住こし昔の迹とて尋見ん時、さこそは袖より余る荊棘の露も、■々として深からんずらめと、行末の秋を思ふ故に身を習はして裙をば揚る也。」とぞ申ける。忠臣諌を納れ共、呉王曾て不用給しかば、余に諌かねて、よしや身を殺して危きを助けんとや思けん、伍子胥又或時、只今新に砥より出たる青蛇の剣を持て参りたり。抜て呉王の御前に拉で申けるは、「臣此剣を磨事、退邪払敵為也。倩国の傾んとする其基を尋ぬれば、皆西施より出たり。是に過たる敵不可有。願は刎西施首、社稷の危を助けん。」と云て、牙を噛て立たりければ、忠言逆耳時君不犯非云事なければ、呉王大に忿て伍子胥を誅せんとす。伍子胥敢て是を不悲。「争い諌めて死節是臣下の則也。我正に越の兵の手に死なんよりは、寧君王の手に死事恨の中の悦也。但し君王臣が忠諌を忿て吾に賜死事、是天已に棄君也。君越王の為に滅れて、刑戮の罪に伏ん事、三年を不可過。願は臣が穿両眼呉の東門に掛られて、其後首を刎給へ。一双の眼未枯前に、君勾践に被亡て死刑に赴き給はんを見て、一笑を快くせん。」と申ければ、呉王弥忿て即伍子胥を被誅、穿其両眼呉の東門幢上にぞ被掛ける。斯りし後は君悪を積ども臣敢て不献諌、只群臣口を噤み万人目を以てす。范蠡聞之、「時已に到りぬ。」と悦で、自二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押寄ける。呉王夫差は折節晋国呉を叛と聞て、晋国へ被向たる隙なりければ、防ぐ兵一人もなし。范蠡先西施を取返して越王の宮へ帰し入奉り、姑蘇台を焼掃ふ。斉・楚の両国も越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出して范蠡に戮力。呉王聞之先晋国の戦を閣て、呉国へ引返し、越に戦を挑とすれば、前には呉・越・斉・楚の兵如雲霞の、待懸たり。後には又晋国の強敵乗勝追懸たり。呉王大敵に前後を裹れて可遁方も無りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手を入替て不継息攻ける間、呉の兵三万余人討れて僅に百騎に成にけり。呉王自相当る事三十二箇度、夜半に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山に取上り、越王に使者を立て曰、「君王昔会稽山に苦し時臣夫差是を助たり。願は吾今より後越の下臣と成て、君王の玉趾を戴ん。君若会稽の恩を不忘、臣が今日の死を救ひ給へ。」と言を卑し厚礼降せん事をぞ被請ける。越王聞之古の我が思ひに、今人の悲みさこそと哀に思知給ければ、呉王を殺に不忍、救其死思給へり。范蠡聞之、越王の御前に参て犯面申けるは、「伐柯其則不遠。会稽の古は天越を呉に与へたり。而を呉王取事無して忽に此害に逢り。今却て天越に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢べし。君臣共に肺肝を砕て呉を謀る事二十一年、一朝にして棄ん事豈不悲乎。君行非時不顧臣の忠也。」と云て、呉王の使者未帰前に、范蠡自攻鼓を打て兵を勧め、遂に呉王を生捕て軍門の前に引出す。呉王已に被面縛、呉の東門を過給ふに、忠臣伍子胥が諌に依て、被刎首時、幢の上に掛たりし一双の眼、三年まで未枯して有けるが、其眸明に開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王是に面を見事さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当て低首過給ふ。数万の兵見之涙を流さぬは無りけり。即呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて遂に首を刎奉る。古来より俗の諺曰、「会稽の恥を雪むる。」とは此事を云なるべし。自是越王呉を合するのみに非ず、晉・楚・斉・秦を平げ、覇者の盟主と成しかば、其功を賞して范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしか共、范蠡曾て不受其禄、「大名の下には久く不可居る、功成名遂而身退は天の道也。」とて、遂に姓名を替へ陶朱公と呼れて、五湖と云所に身を隠し、世を遁てぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌て楓葉の陰を過れば、孤舟に秋を戴たり。一蓬の月万頃の天、紅塵の外に遊で、白頭の翁と成にけり。高徳此事を思准らへて、一句の詩に千般の思を述べ、窃に叡聞にぞ達ける。去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす。玉■に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。■人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。萩戸の明るを待し朝政なけれ共、巫山の雲雨御夢に入時も、誠に暁ごとの御勤、北辰の御拝も懈らず、今年何なる年なれば、百官無罪愁の涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給らん。天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。無心草木も悲之花開事を忘つべし。
http://www.j-texts.com/taihei/thkm2.html
 
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