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正式な法名は、志純義晴大徳位
後鳥羽上皇の第四皇子・冷泉宮頼仁親王が備前国児島へと配流となり、その孫の僧・頼宴の子。
児島高徳の妻は、伊東家の縁続き、伊予国の河野氏一族、河野和道の三女の貞子
岡山県牛窓市、伊東三位入道義祐はこの地にも足跡を残している。
源氏・頼朝は二代頼家が暗殺され、三代実朝が二代目の息子の甥公卿から鎌倉八万の前で刺され三代で滅んだ。
御家人の一人が伊東家の祖・工藤祐経。
領地が伊東ゆえ職種からきた工藤を伊東とした
工藤祐経は自分自身が日本三大敵討ちに名を連ね、曽我兄弟に富士の裾野で打たれた。
児島高徳の子孫は、この東広瀬城を居城として佐久間氏、三宅氏と称した
三河 東広瀬城を築城したのは、築城者: 児島高徳
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/higasihirose.htm
東広瀬城は、伝承では興国3年に児島高徳によって築かれたと云われている。
天正18年、三宅康貞は徳川家康の関東移封に従い、武蔵見賀尻5,000石を領して移封(後に三河田原12,000石)して、東広瀬城は廃城となった。
明智左馬之助光春(秀満)の妾腹の子、太郎五郎が、近江国坂本城
が落城したため、土佐にのがれ、坂本城の地名、坂本姓を名乗ったといわれる。
http://sakuraoffice.com/sakamotoryouma.html
明智光秀の妹が、母であるという斉藤利三の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。
坂本家十代、坂本権平の弟だった龍馬は、明智につながる家系を誇りとして、桔梗
紋をつけた。
明智左馬之助光春は、元々は、三宅氏。その始祖は、南朝の忠臣児島高徳とか。
児島宮に是非来られたし。
南北朝時代に邑久郡射越(岡山市西大寺射越)を本貫とした射越五郎左衛門範貞という武将がいます。後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山に遷ったときに、児島隆徳、今木、大富、和田氏らと共に参上しています。射越氏を含め、これらはみな高徳の一族ということのようです。上記の徳連墓碑には今木久後兵衛徳連と名乗ったと書いてありますし、7代知徳の子徳告は射越三郎左衛門と名乗ったりしています。
http://gos.but.jp/ikos.htm
児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安 の時従三位になり、天皇側近となり、宮家と呼ばれていた。
高徳の子は4人いたと伝えられ、長男高秀は宇喜多
氏の祖、ではなく、長男高秀は児島範長の子で、祖は佐々木盛綱である。
三男高貞が三河三宅氏の祖、四男良寛は三河国大林寺の僧となった。
南朝方の越後加地氏初代佐々木三郎盛綱の子佐々木加地信実
佐々木信実と承久の乱
加地信実の妻は北条時政の女である。
信実の弟・盛季と盛則・俊綱/三代実秀加地実秀
加地筑前二郎左衛門尉について
児島高徳公二男の高久
備前児島の国人三宅徳置の次男(光春)は、明智光久の養子「児島」三宅左馬介光春は、長男光忠と、儀兄弟(23、4歳迄)
光秀の長女の後婿(明智秀満)を名乗ります。
狩野家につながる先祖は明智家から明智家へ稼ついでおります。どちらも(光忠)も兄弟また(細川玉の姉)りつ又は、りんも(姉妹)になります。
*我が家の先祖狩野養長は児島 高徳の絵を沢山描いています。
吉野山の如意倫寺にも寄進した。と言う記録があります
http://www.geocities.jp/motoka_kano/japanese/family_tree.html
補足しますが、児島 高徳と狩野家のつながりは、児島 高徳胤佐久間信盛の女が
狩野孝信(永徳子)に嫁いだ事、から始まります。
それで門下生は高徳の絵を沢山描いています。
荻野彦六朝忠と高徳の関係は、母方の縁戚によるものです。
石清水八幡宮です。
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