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記紀(古事記と日本書紀の総称)には全国各地の風土記や伝承が記されているが、この甘木・夜須郡地方も登場している。
戦前には教科書にも登場していた神功(シンコウ)皇后伝説の件である。
神功皇后は第十四代仲哀天皇(足仲彦尊−タラシナカヒコノミコト:日本武尊−ヤマトタケルノミコト−の第二子)の皇后で、名を息長足媛(オキナガタラシヒメ)といい、開化天皇第五世の孫・息長宿禰(オキナガシュクネ)王の女(ムスメ)である。
異國の軍を靖めさせ給ひて、歸朝の後筑前國三笠郡にして、皇子御誕 生、其所をば宇美宮とぞ申たる。 かけまくも忝なく、八幡の御事是なり。 位に即せ給ひては、應神天皇とぞ申ける。 其後神功皇后は、大和國に移て、磐余稚櫻宮に御座す。 應神天皇は同國輕島明宮に住せ給う
近隣三笠郡編
三笠郡二日市
三笠郡基山
三笠郡内津古、馬市、西小田
延喜 二年, 902, 4/, 平高望、西海道刺史となり、紫陽に赴き、築の前州(筑前国)三笠
郡太宰府に居す。 『平姓千葉氏系譜』. 延喜 二年, 902, 4/, 平高望、西海道九州刺史
に擢任され、紫陽に到り、筑の前州(筑前国)上座郡太宰府に居す。
三笠郡原田(はるだ)村に移って原田(はらだ)と称した。春実より七代目の
子孫原田種雄は、「秋月家譜」に「種雄賜封 筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」
とあり、種雄が源頼家の時代に秋月荘を賜って、地名によって秋月氏と称した
巻第五","都遷" "○異國のいくさをし
づめさせ給ひて後、筑前國三笠郡にして皇子御誕生、其所をばうみの宮とぞ申たる。
"祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。
三笠郡大石村に至る。
筑紫能登守の名があり、能登守は三笠郡に出動したという。
少弐貞頼が筑紫次郎に宛てた充行状である。ついで、嘉吉元年(1441)、少弐教頼が筑紫下野入道に宛てた安堵状がある。それには「筑前国御笠郡筑紫村地頭職云々」との記述がみえ、筑紫の名字が筑紫村にちなむものであったことが分かる。
三笠郡 水面三反六畝 水掛田一町五反歩. 〃 西小田村催合. 身延 水面三反五畝歩 水掛田三町歩余. 〃 四三島村 干長尻 水面七反歩 水掛田三反歩 享保二年(1717) 大牟田 水面五反歩 水掛田一町歩 享保十八年(1733)
三笠郡天山(朝日山の火を受けとる筑前側の山=宮地岳)について 方位について尋ねられたが、方向は丑 ... の末(最後)になる朝日山から、あなたさま の(筑前)三笠郡天山
刀工は「筑前国三笠郡の出山というところに住む唐国の鉄細工」とされている髭切(ひげきり)
源頼光の代、源頼光が己を熱病に苦しめた土蜘蛛を切ったとされ、その際名を蜘蛛切とする
平家は筑前国三笠郡・大宰府に着きました
頼光の父、多田満仲が筑前国三笠郡の「もんしゆ」(文壽?)という鍛冶を都に召し
て打たせたもの。「もんしゆ」は百日精進し、八幡の宝殿に参籠してこれを鍛えた。
http://gensounobuki.fc2web.com/t5/o2_syuten.html
多田満仲が筑前国三笠郡の鍛冶「もんしゆ」(文壽?)に打たせた
もの。「もんしゆ」は百日精進し、八幡の宝殿に参籠してこれを鍛えた。満仲が罪人を
斬った際、鬚ごと斬ったことから「ひけきり」(鬚切)と名づけられ、嫡子頼光に相伝した。
薄緑とは? 膝丸(ひざまる)とは、清和天皇の時代源満仲が作らせたとされる刀で、髭切
とともに源氏重代の刀として伝えられている。刀工は「筑前国三笠郡の出山というところ
に住む唐国の鉄細工」とされている 「薄緑 とは」
或る者申す様、「筑前国三笠郡土山といふ処にこそ異朝より鉄の細工渡つて数年侯ふなれ。 彼を召さるべく侯ふやらん」と申しければ、則ち彼を都に召し上せ、太刀を多く作らせて見給へども、一つも心に称はず。 空しく下るべきにてぞありける。
明応六年(1497)の大内義興下文には既に三笠郡西小田村の名が見える
夜須郡編
羽白熊鷲(ハバクノウタカ)の掃討に赴いた。鴨別はほどなく熊襲征伐を終えている。
羽白熊鷲は、荷持田村(ノトリタノフレ[甘木市野鳥])から鬼ヶ城山(甘木市荷原)にかけた山間部を根拠地に勢力を有していた。
神功皇后は軍勢を率いて御笠川沿いに南下し、砥上岳(朝倉郡夜須町)の南麓に中宿 (本陣)が置かれた(中津屋神社)。以来、この地は中津屋と呼ばれている。
その後、松峡宮(マツオノミヤ)に着いた。
ここはウガヤの城跡。
松延を云う。
日奉宗頼の曾孫宗綱の子直季は、武蔵国多西郡平山に居館を構え平山氏を称した。これが平山氏のはじめで、直季の子が源頼朝から厚い信頼を受けた平山季重である。平山氏はこの季重によって、世にあらわれたのである。季重は平山武者所と呼ばれる
平家が没落したのち、一連の勲功に対して朝廷から右衛門尉に任ぜられ、筑前国三笠郡原田荘の地頭職に捕任された。
季重は嫡子平山小太郎重村と参戦、義経を討つ功をあげた。その功績をもって「驍勇無双の勇士」と賞賛され、幕府が開かれると元老に取り上げられるにいたった。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_hirayama.html
平山季重には嫡男の重村、二男の重友、三男の季武がいた。重村は建久七年(1196)に頼朝が上洛したとき、随兵として供奉している。三男の季武は伊賀守・検非違使に任じられ、晩年は平山に帰って一生を送ったという。
筑前国三笠郡原田荘の地頭となる. 文治5年(1189), 奥州征伐に嫡子平山小太郎重村と
参戦。幕府の元老に取り上げられる. 建久2年(1191), 横沢(現あきるの市)に大悲願
寺を創建する. 建久3年(1192), 源頼朝次男実朝誕生の際、鳴弦の大役を仰せつかる
平山季重も同様で京で上皇を守る衛士を(武者所)務めていました。平山季重が平山武者所季重と呼ばれる由縁がここにあります。
17年壬子年,筑前三笠郡において 「 注油駆除 」 法が. 開発されたとの報告と,
寛文10年(1670年)に筑前. の倉富吉左衛門によって発見されたとの記録もある
1469, 文明01, 少弐(筑紫能登守)、筑前三笠郡に攻め入り大内軍と戦う。 少弐教頼の
子政資、筑前回復に成功。 1471, 文明03, 大内・大友軍、陶弘護に破れ戦死。少弐・大友
両氏、博多を分領する。 1473, 文明05, 少弐政資ら、朝鮮に使を出す。
文明元年(1469年)、筑紫能登守が三笠郡に兵を進め、東軍の政治工作もあり、その甲斐
あって教頼の子・政資が筑前回復に成功したのである。 少弐氏からの離反戦国期に入り、
綾部城の九州探題・渋川万寿丸が家臣により殺害される
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