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南公坊天海とは「南公坊天海智楽院(なんこうぼうちらくいん)」と称した天台宗の僧
天海の出自が明らかでないという
『天海=明智光秀』説の根拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であることを挙げています。
これだけでは、原因となる証拠にはなりません。
比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあります。寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってる
これで、光秀はすでに死んでしまってるので、違う人物ということです。
まじかにある者しか、残りません、それは光秀の女婿となるのです。
これが後の天海僧正なのです。
徳川家康をもっとも有名にしたのも、この天海僧正なのです。
やはりつながりしか、見えませんね。
織田信長討伐ののろしを、上げたのは、佐久間不干斎でしょう。
それを動いたのが、明智光秀と斉藤利三と明智光秀の女婿明智秀満その人でしょう。
女婿は父にとり、ほまれの子を、授ける為に、祖父は和田範長のように、身代わりが武士の本願でした。
お福が生まれたのは本能寺の変の三年前、天正7年(1579)のこと。父斉藤利三が秀吉に処刑された後は辛酸をなめ、13歳の時、三条西実条に奉公する
明治革命の後匿ったのは、この習いからきたものであった。
同じく三条実三が黒田長溥に匿われているのに類比する。
これに叛いたのは、明治革命に同調した三条実三である。
天に逆らうものは、天に罰せられるのは自然。
『明智秀満』
関ヶ原合戦の功と本能寺での違約のため、家康は徳川天下取りの最大の功労者「天海」と稲葉正成の妻お福を重用し、その子である正勝を老中にまで登用、その異父弟家光を家康の真の後継者とするのである。
定説ではお福は公募という如何にも怪しげな方法で、慶長9年(1604)に登用された三大将軍家光の乳母である。
このお福偏重の謎は、その父が光秀の甥であると共に重臣であり、本能寺の変で全軍の指揮を執った斉藤利三の娘であるという事実を考えれば、簡単に読み解ける。
家光の母とされたお江(信長の妹お市の娘)にとって、お福は伯父の敵の娘に当たる。一般的な心情としても、世継ぎを生んだ母親の責任としても、敵の娘にその養育を任せるとは思えない。ここに、天海こと光秀と家康の作為があるのである。
実は家光はお江の子ではなく、お福の子であり、その父は秀忠ではなく家康なのだ。家光の名が家康の家と光秀の光から名づけられているのがその証拠といえる。本能寺の変の違約の補償として、また関ヶ原の戦功に対して、家康はお福に家光を生ませ、後継者としたのだろう。文:佐宗邦皇(歴史研究家) 学研 俊英・明智光秀より抜粋参考
http://bsi.fc2web.com/mitsuhide/tenkai.htm
家康は68歳でしたが、天海に感銘され「もっと早く天海に逢いたかった。」と言われたそうです。
将軍徳川家康・秀忠・家光三代の絶対的信頼
を受け、寛永寺造営や、「黒衣の宰相」崇伝との論争など、 草創期の幕府で活躍した
天海は春日局を通して光秀とつながっており、春日局は、川越の喜多院を通して天海とつながっている。つまり、光秀、天海、春日局は、相互関係をもって、徳川三代(家康、秀忠、家光)に仕えた。
『明智軍記』などによると、光綱について明智光秀の父との記述が見られる。光綱死去の折に光秀は12歳で、その成人まで光安が明智城主として後見したという。
光秀の略歴
清和源氏で土岐下野守頼兼の末裔
父明智光綱後の (光綱の弟、兵庫助光安が美濃明智城城主)
妻妻木勘解由左衛門範熙の女
子女子・・・明智秀満の妻、 織田信澄の妻、 細川忠興の妻
これは大徳寺高東院の細川忠興の墓に類比する。
1552(天文21)年、明智光綱が城主であったときに、斎藤道三に攻められ、光綱は討死。
明智秀満
『明智秀満の妻』
天海僧正 明智秀満三宅秀朝の子(異説あり、後述)。
生年は1536年の他、1535年という説もある。はじめ三宅弥平次と名乗り、父とともに明智光秀に仕えた。光秀の次女は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが、村重謀反の際に離縁され、秀満に再嫁した。その際より明智氏を名乗ったという。 1582年(天正10年)に光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃。
秀満の子(後の三宅藤兵衛重利)は寺沢堅高の家臣となり、天草富岡城代であったときに、天草の乱の際に天草四郎率いる一揆軍に殺されたという。
これで、新たに判明したのが、幕府のキリシタン追放令である。
天氏の秀満の子(後の三宅藤兵衛重利)を殺害したからである。
先達は秋月藩の黒田である。名誉の討伐になった。
遠山景玄も天氏に類比しているという。
三宅重利(明智秀満の息子。天草富岡城代。天草四郎率いる一揆軍に敗死。)
三宅重利(みやけしげとし:〜1638)〈藤兵衛〉江戸前期の細川家家老。
三宅家・・・明智秀満の子三宅重利の嫡子重元の子孫。
三宅家・・・明智秀満の子三宅重利の嫡子重元の子孫。光尚に召され1500石。
1637年10月25日、島原でキリシタンが蜂起し、代官を殺した。
10月27日には天草でも蜂起し、11月14日に富岡城代の三宅重利を殺した。
天草の乱の実態が新たに新発見された、児島宮より。
明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦
後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では
富岡城代として一揆軍と戦い討死した
富岡城
所在地:熊本県苓北町富岡字本丸
1600(慶長5)関ヶ原の合戦後、小西行長の肥後の所領を没収
1602(慶長7)天草が唐津城主・寺沢広高の領地となり富岡城築城
1637(寛永14)天草・島原の乱勃発、城代の三宅重利討ち死に
この三宅重利と宮家正勝ハビアンが記した、(正勝)佐久間不干斎本天草本平家物語は知られている。ハビアン版天草本平家物語でも、幕府とのかかわりが、見えている。
http://www.miyatasan.com/~yagifau/fujinamiism/tomiokajo.htm
「参考」
細川忠隆(細川忠興の嫡男。後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となる。) 細川忠利(細川
忠興の三男。熊本藩初代藩主。) 細川護熙(細川忠利の子孫で、肥後細川家18代目。
縁戚
三宅重利(明智秀満の息子。天草富岡城代。天草四郎率いる一揆軍に敗死。)
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