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「認知」の類似と差異

 投稿者:園田義顕  投稿日:2013年12月 4日(水)14時05分16秒
返信・引用
  現在研究されているテーマの核心が記載されています。
みなさんもご一読ください。

http://www.ctejapan.com/message/m55.html
 
 

福岡認知神経リハビリテーション100回記念

 投稿者:森山雄次  投稿日:2013年 3月16日(土)22時22分6秒
返信・引用
  福岡認知神経リハビリテーション研究会 勉強会100回記念おめでとうございます。当初、原病院と朝倉健生病院を隔月交代で会場として使用していたのが昨日のようです。個人的な話になりますが、臨床実習で実習指導者から「考え過ぎ、もっと簡単に考えればいい」といわれ続けていましたが納得はしていませんでした。しかし、認知神経リハビリテーション研究会の先生方も同じような疑問について考えていらっしゃることが分かり心強く感じていました。

昨年まで大学院で研究していたこともあり、改めて考えさせられたのが理論間の相違です。そもそも、他人と自分の意見が100%一致することはありえないわけで、その延長で言えば、ある理論は他の理論に対して排他的な部分を持つということになります。認知神経リハビリテーションに出会った頃、その理論に可能性を感じながらも「伸張反射を抑制する段階では筋収縮は禁忌、ADL訓練などの類似的な要素も禁忌・・・・」などの不文律な部分に一般的なリハビリテーションセラピストと同様に少なからず疑問を感じていたのも事実です。今回の勉強会で安藤先生、園田先生の講義を聞き改めて認知神経リハビリテーションは進化しているということ確認しましたが同時に認知神経リハビリテーションに対する危惧を再び感じた次第です。もし、認知神経リハビリテーションを全く知らない人間が認知神経リハビリテーションと類似した訓練方法を考えていた場合、認知神経リハビリテーションセラピストは受け入れるのか拒否するのかということです。

以前、「現代思想」で河本秀夫先生と宮本会長の対談が紹介されていました。河本先生が片麻痺の兄に対してボールの大きさを識別させたり・・・認知運動療法のような訓練をしていたということが紹介されていました。もちろん、河本先生は認知理論など詳細に理解してはいなかったということです。認知神経リハビリテーションセラピストはこのような人間(セラピストに限定しないという意味)に対して拒否、否定してきたのではないかという危惧です。もし、そうであれば少なくとも認知神経リハビリテーションの進歩にマイナス要因であったと言えます。少なくとも一般のリハビリテーションセラピストは認知神経リハビリテーションセラピストに拒否、否定されたと感じる「生活の場の環境の具体性」などを、今更「足りなかったもの」として提示されても受け入れないと思います。

従来の認知神経リハビリテーションをaとするとそれに+αとした新しい認知神経リハビリテーションAとなったと思います。認知神経リハビリテーションはそのαをかつて拒否、拒絶したものでなければ良いのですが。

どちらかというと感情論的な意見になったかもしれません。そもそも理論Aと理論Bにおいて「相違」「一致」など断言できるのか、これからも考えてみたいと思います。
 

100回記念勉強会を終えて

 投稿者:伊藤  投稿日:2013年 3月11日(月)15時21分59秒
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  福岡認知神経リハビリテーション研究会が発足し、勉強会開催100回目という記念すべきところに参加できたことを嬉しく思っています。今回の内容で私が受けた感想をここにコメントしたいと思います。
まずオープニングの映像と安藤先生の講義「脊髄と手」を聞いて、私たちセラピストが訓練を実施することにより、ミクロな世界での可塑的変化が期待できる壮大さを改めて感じとることができました。
しかし、臨床現場では非常によくなる患者もいれば、どれだけリハビリをしても変化がない患者も多くみられることが実際であり、このような現状に対して自分自身どうしていいか分からない状態でした(私個人の病態における仮説立ての甘さも含まれています)。「ここまでしてこれ以上どうすればよいか。仮説はよいはずなのに。では訓練の根底にどんなエッセンスを加えていけばよいか。」このようなことは、認知神経リハビリテーションを臨床展開・研究されている多くのセラピストの方々も感じたことがあると思いますが、では具体的にどのようにしていけばよいかという考察をされた方は少ないと思います。
私は変化がない患者を前にして、このまま従来のファシリテーションテクニックのように、この状況を黙認して続いていくものかと考えていた時期もしばしばありました。
園田先生の講義を聞きながら、「医療は常にアップデートしていかなければならない」という学生時代の担任の言葉を思い出していました。ここではあえて今回の講義内容には触れませんが、現状の問題点を黙認してきた従来のファシリテーションテクニックとは違い、イタリアの研究チームは、自ら反省点を見つけ出し、自らを変容しながら、回復に向かうことが出来ない患者がいるこの現状に対して柔軟に対応しようとしているのです。
保守的でなく自ら変わろうとしている姿勢の「認知神経リハビリテーション」という運動療法と「私自身」に、この先を見出せたような気がした勉強会でした。
 

Re: 福岡Basic course お世話になりました。

 投稿者:柿原  投稿日:2012年 9月24日(月)08時59分9秒
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  > No.90[元記事へ]

宮城先生、ベーシックコースの準備・運営お疲れ様でした。

準備する場所と開催する場所の物理的な距離があったので大変だったと思います。

ご苦労様でした。

池田先生をはじめ、熊本の研究会の皆様にも宜しくお伝え下さい。

学会には行けないのでまた話を聞かせて下さい。

ヴィゴツキーの件は大丈夫です。
 

福岡Basic course お世話になりました。

 投稿者:宮城  投稿日:2012年 9月18日(火)18時29分33秒
返信・引用
  福岡認知神経リハビリテーション研究会の皆様へ

3日間に渡り、現場において臨機応変に対応して下さった皆様、ありがとうございました。
福岡のメンバーの協力がなければ今回のコースは成し得なかったと思います。
準備期間から細やかに連絡し、相談に乗って下さった筒井先生、
時期に応じて柔らかく指南して下さった安藤先生、
そして、当日動員で動いて頂いた先生方、

遅ればせながらこの場を借りて感謝を述べさせて頂きます。
本当にありがとうございました。

またの機会、会う日を楽しみにしております。

それでは

追伸)柿原先生、ヴィゴツキーをかっ飛ばしてすみません^^
 

訓練における最近接領域

 投稿者:柿原  投稿日:2012年 5月18日(金)11時52分24秒
返信・引用
  今、ヴィゴツキーの本を読んでいる最中(難しくてわからないことが多いのですが・・・。)でその中で私は「最近接領域」、「ことばの発達」がキワードだと考えています。

こどもの発達において最近接領域とはひとりでは出来ずに少し手を貸してできること、しかもその出来たことが次の日は手を借りずにひとりでできることだと解釈しました。

ことばの発達においては自然発生的な話し言葉と非自然発生的な書き言葉(読み言葉)では全く違う過程をたどることが言語の習得と言語の本質的な意味を持っていると解釈しました。

このことを踏まえて患者を訓練する時に①課題の設定において最近接領域②言語教示の仕方が重要だと考えています。

①に関してはヴィゴツキーが定義しているような最近接領域を考慮しながら課題を設定していくにはどのような見極め(視点)が重要なのかがよくわからなくなってきました。

②に関しては言語を使用するうえで一人称的な患者の言語を中心としながらその上でさらにどのようなことを注意して言語を教示・共有していくのかが非常に難しいことだと感じています。

訓練をしていくうえでの以上の2点に関して訓練の中で考えていることを是非ご意見ください。
 

body imageとbody schema

 投稿者:柿原  投稿日:2011年10月20日(木)17時12分58秒
返信・引用
  久々に投稿します。

内容は題名通りですが、臨床の現場において評価・治療・病態の考察の際にbody imageとbody schemaの使い分け(捉え方)をどのようにされていますか?

言葉を使い分けるということは概念を使い分けていることに繋がり、訓練や病態解釈にも大かれ少なかれ影響してくると考えています。

私の解釈ですがbody imageは非常に広い意味がありそこに内在されるものは宗教や人種、性別や年齢、社会の流れ等を含んだものでかなり意識的なものだと考え、body schemaはより狭い意味で無意識的な身体の存在感のようなものと考えています。

完全な線引きは困難かとは思いますが、概念として区別するポイントが何かあるようなきはするのですがこれといったものが意識的か、無意識的かぐらいしか考えつきません。

臨床ではどのように捉えられていますか?
 

Re: 体幹に関して

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 8月29日(月)11時11分51秒
返信・引用
  > No.85[元記事へ]

北里先生

お久しぶりです。

発生学的にもまた古生物学的にも、脊索動物から脊椎動物への進化過程では間違いなく四肢の萌芽は後発です。(当然と云えば当然の話しですが)ヘビ、アシナシイモリ?・・だったと思いますが、彼らにも四肢の痕跡を認めるそうですから、退化したのでしょうね。四肢の萌芽発生に関する遺伝子でコントロールされているそうです。
身体受容表面としての感覚器のセンシティビティは元より、受容する対象を体幹・四肢(特に末梢部)夫々、異にしたのでしょう。事実、人間の四肢筋・体幹筋を発生学的な立場から眺めても夫々の由来が違っています。
そうなると我々の視点は、夫々の特異性に立脚したものでなくてはならない筈です。

> 進化を遂げたヒトにおいて、体幹と四肢は運動のみならず感覚器としての役割の違いが
> 脳や神経系の発達に違いをもたらしたのではないかと思います。

と、先生のコメントにもあるように、まさにその通りだと思います。

太古の海から汽水域へそして陸上へと我々の祖先を駆り立てたニッチとはどのようなものだったんでしょうか?そしてこの先、どこに行こうとしているのでしょうか?

北里先生、今後も待ってます。お気軽にどうぞ!!
 

体幹に関して

 投稿者:北里堅二メール  投稿日:2011年 8月25日(木)19時58分30秒
返信・引用
  北里です。
久しぶりに覗いてみたら面白そうな話題が載っていたので、
勉強会に参加もしていないのに
横から割り込みいたしますがお許しください。

体幹ありきの四肢なのか?という意図が十分解っていないのかもしれませんが、
体幹がなければ四肢はそれのみでは存在しません。
しかし、蛇は体幹のみで存在しています。
蛇は体幹を使い移動しますし、ピット器官や視覚のほかは体幹が感覚器として周囲の環境からの情報を察知していると考えられると思います。
四肢(ひれ等を含む)を有する動物にとって、
四肢の役割は、移動を効率的にすることがそもそもの目的だったのかもしれませんが、
その効率を上げるためにも四肢の感覚器としての役割が重要になり、
次第にその末端は外界の探査機としての役割を強めていったのではないかと思います。
そして、意図的に特異な感覚を取得すべく、全体としてパターン化された動き(錐体外路系の働きが強い、歩く、泳ぐなども含む)から、意図的な特別な動き(パターンから逸脱した動き)をするように錐体路が発達し、四肢の緻密で繊細な運動が可能となったのではないでしょうか。
体幹は外部に対する感覚器官としてはさほど重要ではなくなったのかもしれませんが、
四肢の自由な動きのためには、体幹の固定、重心調整などが不可欠であることはいうまでもありません。
進化を遂げたヒトにおいて、体幹と四肢は運動のみならず感覚器としての役割の違いが
脳や神経系の発達に違いをもたらしたのではないかと思います。

的外れなコメントでしたらお許しください。
 

Re: 体幹再考

 投稿者:柿原  投稿日:2011年 8月23日(火)18時19分5秒
返信・引用
  > No.83[元記事へ]

安藤先生ご指名なので書き込みさせて頂きます。

系統発生学的の知見で考察すると体幹が構築学的に形成されたのちにヒレが四肢へと進化の過程を遂げ、言語の獲得へとさらに進化していくと思います。

個体発生は系統発生を繰り返すと言われています。

人間であればヒトになるために母体の中で爬虫類や魚類などの系統発生の過程を経て最終的に個体としてのヒトに成長していきます。

先天性の四肢欠損はありえますが先天性の体幹欠損はありえないのはまさに系統発生で体幹が構築された後に四肢が発生することを裏付けていると言えると思います。

機能的側面から考えて体幹がない四肢はありえないでしょうし、また逆の四肢のない体幹ないと思います。

個人的には錐体外路系の体幹が規定されることによって四肢(錐体路)の進化を下支えしたのではないかと考えます。だからといって錐体外路だけで体幹、錐体路だけで四肢(特に上肢)が成立しているとは言えず、錐体外路と錐体路は不可分であるような気がします。

進化を遂げた後の人間の体幹と四肢がどちらかが在りきなのか?と言われるとかなり難問になります。

その疑問がどのような文脈において体幹在りきの四肢なのか?ということを考察するかによっても答えは変わってくるのではないかと思います。

このような考察が僕の中では限界です・・・。

みなさんも気軽に体幹に対する疑問であったり、臨床での悩みであったりを書き込んでください。

安藤先生と僕のチャットのようになっているような気がしてなりません。
 

体幹再考

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 8月23日(火)15時40分42秒
返信・引用
  過日の勉強会 森山先生からの御意見を思い返しています。
御意見の中の一つですが、要約すると「四肢というものは、体幹在りきなのか?否か?」という事だと思われます。(間違っていたら訂正して下さい)柿原先生!これ・・如何でしょうか?是非、御意見を。
 

体幹とは・・?

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 8月21日(日)00時14分30秒
返信・引用
  柿原先生 講義お疲れ様でした。

体幹に関する知見~考察。大変興味深く聴講しました。
皆さんは如何だったでしょうか?







・・・・・勉強(勉める事を強いられる)ではなく「学習」しましょう・・・・・
 

ミラーニューロン雑感・・

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 8月16日(火)18時10分11秒
返信・引用
  安藤です。

皆さん、残暑見舞い申し上げます。
毎年のことですが、夏だからと特にアクティブな生き方ももせずに、ただ暑い暑いと言うばかりです。
こうやって私のような怠惰な人間が形成されていくのでしょうね。間違いないと思います。

さて、ちょっと気になる論文に行き当たりましたので、御紹介がてら皆さんはどう考えるかな?と思って投稿しました。

論文は「A mirror up to nature」  Dinstein et al.
Curr Biol.2008 January 8;R13-R18

タイトルはかなり抽象的です。それでどう日本語にしたらいいか?分かりませんが、敢えて言うなら・・「鏡の本質」みたいな感じでしょうか・・・

全体として何を云ってるかというと、「今日まで、一般的に云われているmirror neuron systemというものの特性は、行為の模倣による学習がなされたり、観察された行動の意味や意図の理解という定式化がされていて、また共感システムを支えているという図式である。そしてこのシステムの障害と自閉症との関連についても数多くの論文がある。しかし果たしてそれは本当なのか?」というものです。つまり、リゾラッティーらの提唱するミラーニューロンシステム説そのものに対する懐疑的、否定的な立場からの論文です。

それで何を言っているか?というと、そもそもmirror neuron system自体の根拠になっている研究は、もうその発表から十数年も経つにも関わらず、それをサポートするものは未だ殆ど無い!と云ってます。サルの実験でもまだ4つほどしかなく、ヒトにおいてこのシステムがどのような因果関係を持っているか?は未だ確立されていない。という意見です。サルでもヒトでも、バイモダル~ポリモダルなニューロンの振る舞いを見ているだけなのであって、これを以って共感だ!心の理論だ!そして、自閉症の原因だ!というのは、飛躍しすぎじゃないか?というものです。

そこで問われなければならないのは、もし、仮にそのシステムが存在するならば、薬理学的にでもそのシステムを一時的にシャットダウンさせておいて、その状況でもう一度、システムチェックをすべきであるとしていますし、fMRIで採られている差分法では、与えられた必要条件と十分条件との差では検出不能ではないか?と言ってます。視覚と言語やワーキングメモリーで活動すると想定される部位と、ミラーニューロンで活動すると云う部位とを分離出来ないのでは?という意見です。また、サルのF5やAIPが活性化した際に、そこがヒトに相同するというだけで、ヒトにおいても・・という考え方は果たしてどうか?と・・・つまり、現状のパラダイムでは、ミラーニューロンシステムだとするには、ダメではないか?というのがこの論文の主旨です。

ここからは私見ですが、「行為の模倣のバックグラウンドにミラーニューロンが存在する」というこの考えは、現在では定説化されていると思います。”サル真似”の語源はよく知りませんが<大分県幸島の芋洗いの例:といってもこの芋洗い行動を一般的な”模倣”といっていいのか?どうか?は私には分かりません。というような問題もありますが・・・>当然のことながら、ヒトがやるような「~のふり」は出来ません。例えば「怒ったふり」であるとか、極端には「イチロー選手の形態模写」などです。

ご存知のように、リゾラッティーらが観察したF5領域のニューロンの発火は、ヒトがジェラートに手を伸ばし、それを口に運んだ時に見られたというものですが、もしヒトがこのサルの目前で、携帯電話に手を伸ばし、天丼を注文し、配達された天丼に口をつけたら・・・恐らく、携帯電話に手を伸ばし、天丼注文のための会話をする事には反応せずに、天丼に口をつける時点での発火という事になるでしょう。

そう考えたら、結局は食物を口に運ぶという行為に対して発火したのであって(食べるという行為の認識はあるということで、これは何も高等霊長類に限らずイヌやネコでも、魚にさえあると思いますが・・・)特別なことではないような気がします。それは、目の前の相手が威嚇しているのか、親愛の情を持っているのかの判断は生物としての基本的な構造であって、それは神経系に既に組み込まれている筈です。つまり高次脳機能に特化された機能ではなく“食べるということ”の意味も同様に認識しているものと思われます。リゾラッティーらのグループで一緒に研究しているイアコボーニは、表情の意味理解も環境音の理解もミラーニューロンだと解釈しています。しかし、それさえもイヌ、ネコのレベルで、その意味を読み取る能力は持ち合わせている筈です。何故ならば、もし、仮にそれが無ければきっと生存の危機に直結する事態が生じたことでしょう。

では、携帯電話というものの意味形成、概念そのものがサルにはないのだから、携帯電話に手を伸ばし、話すという行為に発火が起ころう筈もない。(或いは、可能性として目前のヒトが携帯電話に手を伸ばし口元に近づけ何かをしゃべるという一連の行為を、サルが誤信念して捉え、何か食べ物に手を伸ばし、それを食べているのだと判断すれば、当然、発火すると思われます)という論旨が正当化されるなら、「食べ物に手を伸ばし、口に運ぶ」という行為が取り立てて高次な行為では無いけれども、”紛いなりにも、この程度の行為であれば、行為の意味理解が出来ているのだ”とする事がその根拠になると思います。しかし、それでは却って論理的には脆弱な気がします。(勿論、いつの日かサルが携帯電話に関する種々の意味を解釈し理解出来るようになるとは思いませんが・・・)

現行のミラーニューロンシステムの解釈があくまで「行為の意味理解」であって、単に「手を伸ばす」「掴む」というような運動の単位では無いとすれば、”行為に内在されたとする”もう少し複雑な意味理解がなされないと、どうなのかな?とやや懐疑的になってしまいます。或る動作に意味が付与されて行為となるならばーーーというよりも寧ろ、或る行為というものにはそもそも目的があっての事だと思いますがーーーー実行されているその最中の観察にあって、その最終的な目的が予測されなければ、意味理解には到らないと思われます。

皆さんの御意見を待ってます。
 

Re: ベーシック・コースお疲れ様です

 投稿者:柿原  投稿日:2011年 7月22日(金)19時53分24秒
返信・引用
  > No.79[元記事へ]

森山先生、ベーシックコース運営お疲れ様でした。

「何」を「なぜ」評価すべきか妥当性を反芻する必要があるのでは?

私もそのように思います。

人の身体を「評価」するとなったときにこの身体をどのうような「視点」で考えるかによってすべてが自ずと決まってくるのではないかと思います。

私たちはPT・OT・STとして患者の身体の機能回復をしようと試みます。

柔道整復師やアロマセラピーもまた身体の機能回復をしようと試みています。

この身体の機能回復に対する視点(身体や機能回復に対して)をどのように考えているかによってそこから展開される治療は大きく異なってくると思います。

セラピストは解剖学や生理学、運動学の知識が絶対に必要か?と問われれば私は違うと思います。(解剖学や生理学等の知識が不要だと言っているわけではありません)

解剖学や生理学、運動学が必要だとする前提の元に人の身体や運動を捉えればそのような学問は必要になると思います。

PT・OT・STに限らず数えきれない職種の人々が解剖学や生理学、運動学を知らずに身体の機能回復を試みていると思います。(その治療が適切に行われているかは別にして)

身体の機能回復=解剖学、生理学、運動学の知識が必要という形式は成立しないと思います。

人の身体・機能回復をどのような視点に立脚して考察しようとするかによって必要とする学問は自ずと決まってくるではないでしょうか?

脳科学、言語学、現象学、哲学、認知心理学etcが必要だと考える身体論が必要であれば自ずとその視点に立脚した評価を行ない、治療に結びつけて機能回復を目指していくと思います。

なのでセラピスト側がどのような視点で考察していくのかで全てが決定するではないでしょうか?

「最新の評価測定方法が確立されれば、われわれは無条件にそれに従わざるを得ないのか?」という点に関しても上記と多く重なる部分はあると思います。

最新の知見が身体を治療するに当たって必要だと考えれば取り入れていくであろうし、不要であれば取り入れていかないであろうしそれもセラピストの受け手側次第で知見の持つ意味も大きく変わってくると思います。

最新のものをどう解釈するのかという受け手側の技量が問われていると考えています。

完全に私見ですが・・・。
 

ベーシック・コースお疲れ様です

 投稿者:森山雄次  投稿日:2011年 7月19日(火)22時08分59秒
返信・引用
  ベーシック・コースお疲れ様でした、先生方の講義を聞き原点に立ち返った思いです。そこで今までため込んでいた思いを久しぶりにやや暴走気味に書込みました。

その1:
統計学に信頼性と妥当性という捉え方があります。重要なのは妥当性の方ですが、ゼロ戦での射撃を例にして説明してみます。

信頼性は機体がブレない様に操縦桿を押さえ込む腕力つまりハードの部分だといえます。それに対して妥当性は敵機のX秒後を予測して敵機の先方の空間に見越し射撃するソフト的な能力と例えることができるかもしれません。

従って信頼性も妥当性も高ければ弾幕は点となり全弾命中しますが、信頼性が高くても妥当性が低ければ弾幕は点となりますが全弾外れることになります。信頼性が低くても妥当性が高ければ弾幕は広がりますが、数発が命中することができます。

われわれの臨床における捉え方も同様なことが云えると思います。信頼性の高い評価測定に関心が行きがちですが、妥当性を考える必要があります。

すなわち筋力や関節可動域などデータの収集精度をあげることのみに囚われるのではなく、そもそも「何」を「なぜ」評価すべきか妥当性を反芻することが必要だと。

その2:
自転車で無意識に操作していることですが皆さんもご存じだと思います。左に曲がるときは、直前に逆方向つまり右にハンドルを切って車体が左に傾き始めた後に前輪が遅れて左に切りこんでくるフェーズがあります。

主婦がママチャリを運転しても無意識に普通に行っている操作です。その昔、ケニー・ロバーツというとても速いライダーがいましたが、このような動作を意識的に行っていました。

ハイスピードカメラという当時の最新の機器が発明され、それによって動作を分析し無意識な動作を意識レベルで行っていたわけです。

歩行分析においてもハイスピードカメラの出現によって時間軸で詳細に分析することが可能になりました(但し、マイブリッジの写真はカメラを何台も並べて順にシャッターを落とした筈です)。

つまり、それまで知り得なかった新たな「視点」で解釈できるようになったと言えます。それにより「ヒールコンタクト」や「ダブル・ニーアクション」などの新たな解釈が生まれ、それを指標に訓練を組み立ててきたわけです。

ここで「最新の評価測定方法が確立されれば、われわれは無条件にそれに従わざるを得ないのか?」という疑問にぶち当たります。

あるタスクでfMRIで血流量の有意な増加が認められれば、それをモニタリングしながらそのデータに沿うような訓練をすべきなのか・・・・

本来は捉える事が出来なかった、捉える必要が無かった指標が日々増加していることに恐れおののいています。
 

ベーシックコース終了

 投稿者:柿原  投稿日:2011年 7月19日(火)13時12分2秒
返信・引用
  安藤先生、平川先生講義ベーシックでのお疲れ様でした。

個人的には全く拝聴すことが出来ませんでしたが、各方面から面白い内容であったと伺っています。

筒井先生、久保先生を中心にスタッフの皆さんも準備・運営お疲れ様でした。

受講生の先生方も世間は3連休、さらには蒸し暑い中での3日間の受講お疲れ様でした。

ハードの問題や台風の状況で講師の先生方や受講生の先生にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした。

講義はほとんど聴講できなかったので受講生やスタッフの先生の中で疑問やキーワードであったり、新たに発見があったことなどをBBSに気軽に書き込んで頂きたいと思います。

自分がわからないことは他の先生はどう考えているのか?やこの言葉の解釈はこうなのか?臨床での解釈etcをBBSに表出して頂くと知識の共有や確認、考え方の深さが各々で増していくのではないかと思います。

そして福岡の勉強会でも活発な議論ができるように個々が能動的な勉強会になればと個人的には思っています。
 

Re:言語・身体・思考・・

 投稿者:森山雄次  投稿日:2011年 6月22日(水)11時50分14秒
返信・引用
  安藤先生 柿原先生  お疲れ様です。

私の研究発表に対して興味を頂き大変勇気づけられています。最近はやや息切れ気味でしたが、データ収集含めて再加速して行きたいと思います。

無限の脳が、有限の身体との相互作用のために無限な言語を有限として使わざるを得ないのかと思っています。道具などは有限の身体を拡張するための手段ではないかと思っています。

本来、無限な組み合わせを持つ言語ですが、個人の来歴を含む思考によってその表出が有限となるのは間違いないと思います。

メルロ=ポンティは何度も挫折していますが、再挑戦したいと思っています。
 

言語・身体・思考・・

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 6月22日(水)09時56分13秒
返信・引用
  言語・思考・身体に関するメルロ=ポンティの書籍があります。既に読まれた方もいらっしゃるかと思いますが
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫) [文庫]です。

個人的な感想ですが、超が付くほど難解です。最初に巻末の解説を読まれてから臨んだ方が良いかと思います。何度か挑戦していますが、恐らく読破は出来ないものの中の一冊だと覚悟しています。

下記は参考までにAmazonのサイトです。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%AD-%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9-%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3/dp/4480084681
 

Re: Re:運動と言語

 投稿者:柿原  投稿日:2011年 6月21日(火)19時16分59秒
返信・引用
  森山先生の発表の中でありましたが副詞の認知的側面における意味であったり、麻痺の回復との関係性であったりを考えると運動における言語の重要性がより明確になるような気がしました。

回復過程における品詞の変化を経時的に観察するのも興味深いです。

言語というものが何か安定して貯蔵されており、表出する際はそこから引き出している印象を受けますが実際は非常にダイナミックな皮質における活動によって生み出されているということが個人的には非常に重要だと考えています。

だからこそ言語より複雑なものになっている証拠でもあるのかなと勝手に妄想しています。


みなさんはいかがお考えでしょうが?
 

Re: Re:運動と言語

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 6月21日(火)18時16分40秒
返信・引用
  > No.73[元記事へ]

森山先生

過日の福岡認知神経リハ研究会での発表・報告、大変興味深く拝聴させて頂きました。
有り難う御座いました。また、柿原先生の投稿、こちらも興味深く読みました。

”言語”・・・人類こそが成し得、そして辿り着いたこの領域は間違いなく生物界において最高次の脳機能
だと云っても間違いは無いと思います。何百万年もかけて(生物進化から云えば何十億年ですが)進化し
た結果として、この言語を有するに至ったと思えば、言語とは甚だ恐れ多いものでもありますね。

そして、面白い事には、この最高次脳機能である言語が、その極においてどこか機械的な「身体」という
敢えて云えば「低次な構造体」に端を発し、常にそれが仲介しなければ言語とはならならい。事です。
(これは身体と脳を対比している意味ではありません)
最も進化を遂げ、またそのような変化の最中にあるものが、最も固定化され組織化された機能への連絡を
以て、筋収縮というシステムを介して具体化される。実に不思議です。
このことは、森山先生の研究にも通底することかも知れないですね。そう思っています。

「言語」というものは、兎角、魅力的なそしてますます神秘的だと思われませんか?
皆さんからの投稿も楽しみにしています。
 

Re:運動と言語

 投稿者:森山雄次  投稿日:2011年 6月19日(日)17時19分13秒
返信・引用
  柿原先生

早速のご意見ありがとうございます。本日も大学院の研究指導があり、今帰って来たところです。

今年は東日本大震災による未曾有の災害が発生し、原子力というものが見直されています。以前、臨界前核実験というニュースをよく聞いていました。核爆発という最終プロセスの直前で実験を止める、ということです。しかし、それでも核実験でありデータの解析は十分可能であるということに興味を持っていました。

強引かつやや不謹慎な伏線でしたが、思考、言語と運動も切り離すことができないということは理解できます。思考と言語から筋収縮(最後の鎖)の直前でのプロセスでの寸止めは、運動と非常に近いものかもしれません。

言語に関してですが、やはり完全な共有は無理がありますし、だからこそソシュールの言語学などを基礎とした「構造構成主義」を取り入れる必要があると思います。認知運動療法研究会でも「構造構成主義」を研究されていますが、やはり言語は不可避だと思います。

昨年から、量的寄りな理論の組み立て方になっていたので、認知運動療法研究会での発表は新鮮でした。データ収集と理論背景の組み立てばかりに知力を使っていたので一人では考え付かなかった部分がありました、ご意見ありがとうございました。今後もよろしくお願いします。
 

運動と言語

 投稿者:柿原  投稿日:2011年 6月18日(土)12時56分43秒
返信・引用
  森山先生、貴重な発表ありがとうございました。

森山先生の研究に関して非常に興味深く聞かせて頂きました。

言語という主観的(質的)現象を客観的(量的)なものへの変換の過程が非常に困難なものかもしれませんがその困難ものに立ち向かって何か形として提示しない限り、臨床での言語の重要性が証明できないことを改めて実感しました。

私も言語に非常に興味があります。

森山先生のお話を聞きながら疑問に思ったことがあります。

「思考」は「運動」なのではないか?ということです。

運動というものが表出された上肢、下肢、体幹、顔面のいわば筋収縮を伴って初めて運動と考えられていますが運動そのものは最終的に視覚で確認できるもの(視覚で確認されない筋収縮もありますが)でなければならないという前提が本当なのか?と感じました。

思考は言語がなければ確立されません。その反対は無いと思いますが・・・。

しかも人間の運動というもの考えると思考・言語・運動が独立しているものではないはずです。

運動の企画、程度、タイミング、実行は思考であり、私はそのすべてが運動だと思います。

しかし、その最終的なものの一端に垣間見られる実行された筋収縮だけを切り離して運動として考えようとするのであれば本質的な運動を考えていることにはならないと思います。

言語自体もメタファーであり、それは何のメタファーであるかとするとイメージであったり、こんな嬉しい気持ちの表現であったり、何か達成したときのの経験であったりというものをなんとなく共有することが可能でないかというものの置き換え(メタファー)が言語ではないのかと思います。

言語は何か共有できるとされていますが私は完全な共有は困難だと思います。

それは個人の意識経験であったり、思考であったり、個人の身体感であったりとその人の背景が全く異なるものであるため、一つの言語を取り出してもそこに付属する背景(イメージ)は個人によって全く違うと思います。

だから言語は「なんとなくの共有」であると考えています。

なので運動と言語と思考は表裏一体だと思います。
 

勉強会案内・・文献抄録など・・・

 投稿者:安藤  投稿日:2011年 6月 8日(水)00時32分6秒
返信・引用
  久々の投稿です。

下段の小林先生の投稿にもありますが、筑豊地区でも認知神経リハビリテーション勉強会が立ち上がりました。
第2回の開催は、今月、24日を予定しています。近隣の方は御参加下さい。
詳細はhttp://ncriizuka.jimdo.com/まで。

さて、福岡認知神経リハビリテーション研究会のHPのTOP にも掲載しましたが、皆さんからの文献抄録や書籍の紹介など、公募しています。臨床のヒントや思考の一助になるような・・堅苦しい事はこの際、申しませんのでどうか奮って投稿して下さい。
日々の臨床、或いは教育の場においても同様だと思いますが、やはり新たな知見というものは不可欠なエッセンスだと思います。気負わずに気楽に投稿して下されば幸いです。

「一日、一文献!!必読!!!」      これは私が自らに課す理です
 

勉強会 飯塚

 投稿者:小林  投稿日:2011年 4月24日(日)20時42分0秒
返信・引用
  先日、認知神経リハビリテーション勉強会 飯塚の第1回目を開催し、無事に終了いたしました。
安藤先生には、遠くご足労いただき、アドバイザーまでしたいただきまして、誠にありがとうございました。

まずは、認知神経リハビリテーションを広めいこうと言う考えで勉強会を行っていこうと思います。
これからどう、展開していくのかわかりませんが、続ける事を大事にしたいと思います。
福岡の研究会のみなさまにも質問攻撃をするかもしれませんので、その際はよろしくお願いします。
 

合同勉強会

 投稿者:小鶴 誠  投稿日:2011年 3月30日(水)11時53分2秒
返信・引用
  今回の九州合同勉強会に参加された皆さん
そして運営してくれた皆さん
お疲れさまでした.

中々に楽しい一日でした.(個人的に)

これからもよろしくお願いします.
 

合同勉強会ではお世話になりました

 投稿者:西谷  投稿日:2011年 3月29日(火)00時31分17秒
返信・引用
  今回、何らかの形で力添えできず、申し訳ありませんでした。しかし、会のほうはというと、盛会のうちに幕を下ろしたのではと思います。

福岡の先生方の力強さと、真摯に学ぶ姿勢を垣間見ることができ、自身についても刺激になりました。ありがとうございます。

次年度は、今回の福岡からのいい流れを崩さぬように、会の成功へ向けて取り組んでいくので、その際は何らかの形でお力添えいただけると幸いです。

今回の開催につきましては本当にお疲れ様でした。いい経験をありがとうございました。
 

合同勉強会お疲れ様でした

 投稿者:宮城  投稿日:2011年 3月28日(月)08時18分25秒
返信・引用
  福岡の研究会の皆様へ
昨日は大変お世話になりました。

講義内容に関して多くの不備はあったかとは思いますが、何かしらみなさんの片隅にでも残るものがあれば(良くも悪くも^^)幸いです。

僕自身、色んな視点での話を聞く事ができ非常に勉強になりました。
年度末ということもあり、煩雑な中携わって頂いた筒井先生、久保先生、柿原先生、小鶴先生には本当に感謝しています。

また、こちらの不手際もあり未熟な抄録では大変ご迷惑をお掛けしました。


でも、やはりこうやってみんなで集い、相方向で話し合える環境はとても貴重なものであり、楽しいものだなと再度実感しました。

力量不足ではありますが、これからも一緒になって盛り上げていけたら、と思っています。
宜しくお願い致します

ありがとうございました!!!!

                                  宮城
 

柿原先生へ

 投稿者:宮城  投稿日:2011年 2月16日(水)08時57分1秒
返信・引用
  「御教授」とはまたあげすぎです!!

こうやっていろんなことで
展開していけるとちょっと大変ですが、
とても有意義なものだと感じます。
忙しい中、引っ張りまわしてすみません^^

また、なにかしら^^

http:// 

 

Re: りんしょうのことば

 投稿者:柿原  投稿日:2011年 2月10日(木)11時58分1秒
返信・引用
  > No.64[元記事へ]

言語そのものが難しい上、患者の言語となるとさらに難易度が上がりますね。

今後も言語について、解釈が深められるようにいろいろ考えていきたいと思いますので宮城先生の御教授お願いします。
 

Re: りんしょうのことば

 投稿者:宮城  投稿日:2011年 2月 3日(木)20時37分5秒
返信・引用
  > No.63[元記事へ]

柿原さんへのお返事です。

言語…

●言語化とは、後方視的に明確化するためのものでありそれにより情報として貯蔵するためのものなのではないかと考えています。そのことにより前後のことと比較しうるものとなる。その繰り返しの経験が、捉え方としては大げさかもしれませんが学習であり、その機能が身体―世界との関係性の上で成り立っている。その中で現象学的視点において、私があることとで世界を意識できること、そのつながり、一体性から「意味を与えている」という表現となるのではないか、と。ちょっとこの辺は飛躍しすぎているでしょうか^^ スミマセン
>
間主観性に関して

●僕の中では間主観性は作られているものではなく、すでにそこにあるものだと思っています。二者関係で自然発生的に創発されるような。
相互的な関係性を意識し、言語化した時にその部分を分かり合うということが間主観性を作ることになる…間主観性に関して、僕の捉え方がまだ不十分かとも思いましたので、もう一度いくつかの文献を見直してきます。
ただ、そこに意味を見出そうとすることを、例えば言語で行うことで情報を共有し、共感し、価値判断できる。このことが重要である。この点は同じ感覚なのではないかと思いました。そのための言語は重要な要素の一つで、それを重要とするには表情、声量、音質、身振り、間、周囲の環境全てが含まれると思います。同じ文言でもそれを与える人によって…だから難しい…

丁寧に考えれば考えるほどわからなくなり…
臨床において、考えれば考えるほど悩みは尽きず、でもきっとこの螺旋からは降りてはいけない、そんな緊迫感のある状況が患者との間主観性に意味をもたらし、自己身体に意味を付与できる(もうあるものに付与する、という表現はちょっと怪しいですが^^)ための関わりとしていな、と。

僕自身の思考も飛んでいるでしょうか。
こんなことを考えました。
 

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